クレア・リー・シェンノートとは
クレア・リー・シェンノート(Claire Lee Chennault、1893年9月6日 – 1958年7月27日)は、テキサス州コマースに生まれ、ルイジアナ州ニューオーリンズで亡くなったアメリカの軍人で、最終的に空軍中将まで昇りつめた人物です。第二次世界大戦中に中国で「フライング・タイガース」として知られる義勇飛行隊を指揮したことで有名であり、中国とアメリカの両国において戦争英雄として称えられています。
生い立ち
シェンノートはフランス系ユグノーの家系の出であり、遠い祖先にはテキサス州の創設者サム・ヒューストンや、南北戦争で南軍を率いたロバート・E・リー将軍が名を連ねます。母親はルイジアナ州の由緒ある地主一族の出身でした。ルイジアナ州ウォータープルーフの町で育ち、高校卒業後すぐにルイジアナ州立大学へ進学するため、年齢をごまかして入学したといわれています。
軍歴の始まり
予備役将校訓練課程(ROTC)で教育を受けた後、アメリカ陸軍航空隊に所属して航空の道へ進み、第一次世界大戦中は教官として勤務しました。その後、アメリカ軍航空部隊のさまざまな部隊で務めましたが、上官との意見の相違や聴力の問題により、1937年に現役を退くことになります。
中国への渡航と日中戦争
退役後、シェンノートは中華民国政府に協力を申し出て、1937年6月に蒋介石の航空顧問となりました。彼が中国に到着してわずか1か月後に日中戦争が勃発し、内陸部へ退きながらも抗日戦を指揮し続ける蒋介石のもとで、中国空軍の戦略立案に大きく貢献しました。1938年の夏からは、航空委員会を統括する蒋介石夫人の宋美齢の直接の監督下で働き、アメリカ式の空軍建設を任されます。さらに、外国人パイロットによる飛行隊の設立にも尽力しました。
フライング・タイガースの結成
1940年以降、中国の軍事情勢が深刻化するなか、シェンノートはアメリカ政府に支援を要請しました。当時アメリカは公式には中立の立場でしたが、レンドリース法によってルーズベルト大統領はカーチスP-40ウォーホーク戦闘機の供与を承認します。シェンノートは民間軍事会社CAMCOを通じて、技術者とパイロット合わせて300人のアメリカ人を募集し、表向きは民間人として中国入りさせました。義勇兵だけでなく冒険家や傭兵も含むこの部隊は、アメリカによる中国戦線への最初の非公式な関与となりました。
1941年の夏の終わりに、この部隊は「アメリカ義勇飛行隊(AVG)」として正式に承認されました。これはスペイン内戦における国際旅団にも似た政治的・法的な現象でした。同年8月に正式編成されたこの戦闘飛行隊は、中国では「フライング・タイガース」の名で広く知られ、約7か月間にわたり日中戦争およびビルマ戦役で日本軍と戦いました。
米軍への復帰と第14航空軍
1942年7月、フライング・タイガースは解散してアメリカ陸軍航空軍に編入され、シェンノート自身も大佐として(のちに中将へ昇進)アメリカ軍に正式復帰しました。1943年3月には、フライング・タイガースの一部の人員を含む第14航空軍の指揮官に就任しています。
この時期、シェンノートは蒋介石に派遣されたアメリカの軍事顧問ジョセフ・スティルウェル将軍と対立することでも知られます。蒋介石の支持を受けたシェンノートは、中国においてアメリカ軍によるより積極的な対日航空作戦を推進した一方、スティルウェルはビルマ戦線への航空支援と陸上戦争全般を重視する姿勢を崩しませんでした。
CBI戦域での航空戦
中国・ビルマ・インド(CBI)戦域の航空戦では、ヒマラヤ山脈越えの輸送路「ハンプ(The Hump)」が戦略的な要となりました。双発輸送機カーチスC-46コマンドーやダグラスC-47スカイトレインを用いて、中国とビルマの間で連合軍への補給を確保したのです。1943年には日本軍が再び航空攻勢に出て、1944年には「一号作戦(イチゴー作戦)」の一環として、シェンノートが構える中国国内の基地の一部が占領されました。しかし日本軍の攻勢はアメリカ空軍の攻撃を止めることはできず、アメリカ側は単に作戦基地を移動させて対応しました。1945年には、中国軍の全面的な反攻のなかで、湖南省西部における新たな日本軍攻勢の阻止に貢献しています。
戦後の活動
戦後、除隊したシェンノートはアジアでの活動を続けました。1946年には民間航空会社「民航空運公司(Civil Air Transport)」を設立し、国共内戦では国民党に対して重要な兵站支援を行い、1948年から1949年にかけては数千人の中国人を中国本土から台湾へ移送しました。1951年には同社はCIAが支配する持株会社に買収され、のちに「エア・アメリカ」と改称されています。また、民航空運公司の人員は、キャセイ航空や中華航空の創設にも複雑な形で関わりました。
さらに1946年には、「フライング・タイガー・ライン」を設立しました。同社は瞬く間に世界最大級(そして最も目立たない)チャーター航空会社へと成長し、アメリカ空軍だけでは対応できない軍事輸送を担いました。朝鮮戦争でも(目立たない形で)役割を果たし、第一次インドシナ戦争ではフランス軍に雇われ、ディエンビエンフーの戦いにおける補給任務にも従事しました。
私生活と晩年
1947年、シェンノートは1925年生まれの中国人女性、陳香梅(チェン・シャンメイ、アンナ・シェンノートとして知られる)と結婚しました。彼女はその後アメリカで、台湾を支持するロビイストとして活躍することになります。
シェンノートは肺がんのため軍病院で亡くなり、アーリントン国立墓地に埋葬されました。