
半円形の兵舎と湖に恵まれた訓練所
私たちが暮らすのは、プレハブ造りの半円形兵舎。食堂や運動場も整備され、毎日湖に出てセーリングや水泳を楽しむ余裕さえあった。こうしたレクリエーションは、教官たちが熱心に奨励するものでもある。
勤務時間中の規律は厳しい。しかし勤務時間外になると、受訓者と教官の関係は和やかで信頼に満ちたものになる。教官の多くは生徒と変わらぬ若さであり、そこにはイギリス軍特有の、男らしく飾らない仲間意識が漂っていた。
過酷な一日のスケジュール
スケジュールは過酷だ。週に一度だけ午後が休みとなり、キャンプの紋章であるマングースの徽章を掲げたトラックでプーナの街へ送られるか、近郊の乾燥したジャングルを探検するか、あるいは湖でのセーリングに興じるかして過ごす。
起床後はすぐにロングラン、体育、バスケットボールの試合、そして朝食。午後1時までは教習が続き、手早く済ませる昼食のあとは午後5時まで再び訓練。お茶と夕食の間の時間は概ね自由だが、一晩おきには夜間訓練があり、さらに週に一度は24時間または48時間の野外行軍が課される。
武器の知識と実弾射撃訓練
武器教育はきわめて実践的だった。分解と結合の手順、作動の仕組みを学ぶ。扱う武器の種類はそれほど多くない。ブレン軽機関銃、リー・エンフィールド小銃、ステン短機関銃、コルト拳銃、スミス&ウェッソン回転式拳銃、そしてPIAT迫撃砲である。
PIATは舟艇、車両、機関車、装甲扉に対して極めて効果的な砲弾を発射でき、コマンド部隊の任務にうってつけの兵器だった。ステンとスミス&ウェッソンに至っては、水に浸そうが泥にまみれようが確実に動作し、私たちの任務に理想の武器と言えた。
こうした武器の知識を授けてくれたのは、全身に傷跡を刻んだ古参軍曹である。彼はトリポリタニアでの襲撃作戦中、不運にも対空機関銃の真上にパラシュート降下してしまったのだという……。
武器を手にし始めて15分も経たないうちに、教官たちはすでに私たちを射撃場へ連れて行った。翌日からは毎日の訓練となる。拳銃の射撃では、右利きか左利きかに関わらず、たちまち熟練の域に達した。キルト姿の高貴なスコットランド人大佐自身が毎日現れては、「積極的に攻めろ! 積極的になれ!」と叫びながら、本能的射撃の要領を実演してみせた。この方法はすぐに身につき、やがて反射的にこなせるようになった。
暗闇の屋敷で繰り広げる夜間戦闘訓練
私たちは丘の中腹に建てられた仕掛けだらけの家屋で、反復訓練によって技を磨いた。1階も2階もほぼ完全な暗闇。ところどころに控えめに置かれた青白いランプのおかげで、かろうじて壁の位置を推測できる程度だ。
ふいに、廊下の突き当たりに日本兵の人影が現れる。素早く二発撃たなければならない。撃ち終わるか終わらないうちに、背後で扉がきしむ音に飛び上がる――脅威的な日本人がこちらに銃口を向けているのだ。
1階はもっと過酷だ。最初のうちは落ち着きを欠き、弾丸はあらぬ方向へ飛び散った。ときには教官の腕すら危うくなることも。しかしその訓練の終わりには、二つの弾倉分の弾薬を冷静に制御しながら撃ち切り、日本兵の護衛に囲まれた捕虜の人影だけを正確に捉えられるようになっていた。
日本製の武器による射撃訓練も行った。ジャングルや藪地では、鹵獲した武器を使いこなせることに助かる場面があるかもしれないからだ。
障害物コースが試す胆力と持久力
私たちの持久力、鍛錬、資質は、綿密に設計された手強い「障害物コース」で試された。体力、粘り強さ、度胸、高所への耐性、遂行速度、射撃と投擲の精度、沈着さ、冷静さ――すべてが求められる。
有刺鉄線の柵を越え、全装備をつけてほぼ5メートルの深さへ飛び降り、屋根によじ登り、障害物を越え、塹壕を渡り、頭上30センチを機銃が唸るなか、わずか1メートル先で大地を揺るがす爆発音とともにトンネルを進む。
教官が頭上50センチまで迫った位置から小銃を乱射するなかを匍匐前進し、右から、左から、正面から現れる日本兵の人影に向かって手榴弾の安全ピンを抜き、狙いを定める。
シンガール・ルートには、高さ80メートルの虚空に吊るされたロープ梯子での下降が含まれる。私たちは今や昼夜を問わずこれを行い、遠隔起爆装置や頭上を駆け抜ける銃撃など意に介さなくなっていた。こうした行軍を重ね、デカン高原の岩だらけの丘陵を踏破するうちに、私たちは少しずつタフになっていった。
岩石の間を縫って進み、うだるような暑さの昼間に列車を襲撃し、教官たちが仕向けた警察や軍隊による本物の追跡から逃れるために何十キロもの距離を移動した末、トラックでの快適な帰路を思い浮かべるのだった。
帰りのトラックは来ない
そしてよくあることだが、集合地点に行くと、待ち望んでいたマングースの徽章を付けた車両ではなく、教官が一人立っているだけだった。「トラックは来ない。歩いて戻ってもらう」と。