中世最大級の十字軍であっても、戦闘員の数は1万人を超えることがまれでした。最初の二つの十字軍が「無数の群衆」という印象を後世に残したのは、行軍の足手まといとなり、進撃を遅らせ、あるいは乱暴狼藉によって遠征そのものを危機に陥れる非戦闘員の割合が極めて高かったためです。
十字軍の専門化――非戦闘員の排除
第2回十字軍以降、教会当局や世俗の権力者はこうした非戦闘員の従軍を防ぐよう努めました。その結果、13世紀に入ると十字軍は、戦いを生業とする職業的な兵士たちによって構成されるのが主流となります。民衆は傭兵として雇われる場合を除き、十字軍の本体に組み込まれることはなくなりました。
統制なき「民衆」十字軍
とはいえ、13世紀から14世紀にかけても「民衆」による十字軍運動は完全に消えたわけではありません。ただし、それらはいずれも統制を欠いた「野放し」の運動であり、初期の民衆十字軍に見られた熱狂と、同時に深刻な無秩序の両方が色濃く表れていました。
最も有名なのは1212年の少年十字軍です。フランスとドイツから数千人もの子供たちが立ち上がりましたが、マルセイユの一部の商人たちはこの運動につけ込み、若い巡礼者たちを船に乗せたままエジプトへ連れて行き、奴隷として売り払うという悲劇を引き起こしました。
パストゥロー(羊飼い)運動の蜂起
その後、1250年には、謎めいた人物「ハンガリーの師」に率いられたパストゥロー(羊飼い)たちが、エジプトで捕虜となった聖王ルイ9世の救出を掲げて出発します。しかし運動は次第にジャックリー(農民一揆)のような社会騒乱へと変質し、摂政カスティーリャのブランシュ太后は武力をもってこれを鎮圧せざるを得ませんでした(1251年)。
その後も「パストゥロー」の一団は現れましたが、1320年の蜂起を最後に、民衆十字軍の歴史は幕を閉じることとなりました。