
1187年、サラディンがヒッティーンの戦いに勝利してエルサレムを奪回すると、ヨーロッパでは第三次十字軍が組織された。神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)、イングランド王リチャード1世(獅子心王)、そしてフランス王フィリップ2世(フィリップ・オーギュスト)という三大君主が参加した大遠征である。本稿では、その中でも特に評価の分かれるフィリップ2世の聖地での役割を検証する。
評価が分かれるフィリップ2世の聖地での役割
フィリップ・オーギュストが聖地で果たした役割については、古くから膨大な議論が重ねられてきた。中世史の記述において、これほど筆墨を費やされてきた主題も少ない。
「騎士道のイングランド王」と「策略のフランス王」という構図
従来の語りでは、イングランド王リチャードの騎士道的な振る舞いと、フランス王の駆け引きや策略が対比されてきた。そして今日でもなお、一見もっともらしい根拠を掲げながら、両者は対置され続けているのである。
アッコ陥落の真の立役者は誰か
しかし、こうした対比的な語りの中で忘れられがちな重要な事実がある。聖ヨハネ・アッコ(現在のイスラエル北部の港湾都市アッコ)が陥落したのは、フィリップが現地に先着して命じた攻城工事の賜物だったという点である。フィリップは1191年4月にアッコへ到着し、包囲網の整備と攻撃の準備を着々と進めていた。
同盟軍を疲弊させたリチャードの振る舞い
一方、6月になってようやく上陸したリチャードは、秘密裏の交渉、激昂、気まぐれな気分の変化によって、共闘する仲間たちを苛立たせるばかりであった。彼とともには、一貫した政策を遂行することなど到底不可能だったのである。
「病気」という口実の真相
ほどなくしてフィリップは帰国の途に就く。病気を理由に詫びを入れると、リチャードはそれを単なる言い逃れにすぎないと断じた。ところが実際には、フィリップは本当に重篤な病に冒されており、周囲がその生命すら案じるほどだった。
さらに注目すべきは、彼の帰還の旅がおよそ6か月に及んだことである。フィリップは1191年7月末にアッコを発ち、ローマなどを経由して、同年12月末にようやくパリへ戻った。祖国への帰還を急ぐ男の旅路だと、果たして言えるだろうか。「逃亡」というレッテルを貼る前に、こうした事実を冷静に見つめる必要があるだろう。