古代の歴史

5. 香辛料諸島の貿易をめぐるヨーロッパ諸国の熾烈な競争

5. 香辛料諸島の貿易をめぐるヨーロッパ諸国の熾烈な競争

インドと東インド諸島との貿易は、グプタ朝時代、さらにはそれ以前から盛んに行われていた。16世紀にムガル帝国がインドに確立されて以降も、この交易は大きな支障なく続けられていた。当時のインドの主要な輸出品には、綿布、穀物、油糧種子、モロコシ、砂糖、米、藍、香料類、香木や香料植物、樟脳、クローブ(丁子)、ココナッツ、各種動物の皮革、サイやヒョウの毛皮、白檀、アヘン、コショウ、ニンニクなどがあった。これらの産品はヨーロッパ諸国のみならず、ジャワ、スマトラ、アチェ、マラヤ、ボルネオ、ペグー(下ビルマ)、シャムといった東方諸国にも運ばれた。とりわけアヘンは、ペグー、ジャワ、中国、マラヤ、ペルシャ、アラブ諸国へ送られていた。ムガル支配がインドに根を下ろしつつあったこの時期、東方の香辛料諸島との貿易をめぐるヨーロッパ諸国の競争は、まさに頂点に達しようとしていた。

ヨーロッパ諸国の海洋覇権をめぐる攻防

15世紀末の10年間、ヨーロッパ各国は遠隔地との直接交易を目指し、新しい海路の探索に乗り出した。この動きの先頭に立ったのが、ヨーロッパでも小規模な国ポルトガルである。ポルトガル人はペルシャ湾のホルムズから、マラヤのマラッカ、さらにインドネシアの香辛料諸島に至る広大な海岸線を次々と掌握した。貿易上の優位を守るため、他のヨーロッパ諸国と激しく戦うことを厭わず、海上での略奪すらも平然と行った。19世紀イギリスの著名な歴史家はこう評している。
「ポルトガル人は貿易を主な生業としたが、イギリス人やオランダ人と同じように、機会さえあれば略奪に手を染めることを何とも思わなかった。」

しかしながら、ポルトガルは人口わずか約100万人(16世紀)の小国であり、ペルシャ湾から東方の香辛料諸島に至る商業的支配を長く維持することはできなかった。16世紀後半になると、イギリス、オランダ(ネーデルラント)、フランスが、スペインとポルトガルによる独占体制に真っ向から挑んだ。1580年にはポルトガル王位がスペインに併合され、両国は一体のものとなっていった。

オランダ人の故郷ホラントは、ドイツとベルギーの間に位置する小国で、のちに国名をネーデルラントと改めた。彼らは古くから東インド諸島の香辛料貿易に関わり、リスボンの市場で香辛料を仕入れては北ヨーロッパへ転売していた。だがスペインによるポルトガル併合により、従来の交易ルートが断たれる危機に直面したオランダ人は、香辛料諸島と直接結ぶ新たな航路を開拓せざるを得なくなった。そして1602年、インドおよび東インド諸島との貿易を目的として「オランダ東インド会社」が設立された。

一方、ポルトガル併合で海上における発言力を強めたスペインだったが、1588年、「無敵艦隊(アルマダ)」と呼ばれた大艦隊がイギリスに撃破され、その制海権は崩れ落ちた。この勝利によって、イギリスとオランダの商人たちは喜望峰回りの航路を利用してインドへ渡り、東方における勢力圏構築の競争に本格的に参入できるようになった。最終的に、オランダはインドネシアを、イギリスはインド・セイロン(スリランカ)・マラヤをそれぞれ支配下に収めた。インドに残されたポルトガルの拠点は、ゴア、ダマン、ディウのみとなった。

フランスもまた、ポルトガル、オランダ、スペイン、イギリスと同様に海路の支配を狙ったが、国内の動乱に悩まされ、この競争に出遅れることになった。1604年から1619年にかけてフランス政府は東インド会社を二度設立したが、いずれも失敗に終わった。ルイ14世の時代に入ると、宰相コルベールが1664年に三度目となるフランス東インド会社を創設した。この会社には、インドと東インド諸国での貿易に加えて、植民地の建設とキリスト教の布教という使命が託された。

香辛料諸島をめぐるポルトガルとオランダの対決

ポルトガルは1511年にマラッカを攻略すると、まもなく東インド諸島全域に支配権を打ち立てた。オランダ商人は長らくリスボンの市場経由で香辛料を購入せざるを得なかったが、1580年のスペインによるポルトガル併合、さらに1588年のスペイン艦隊の敗北を受けて、東インド諸島への直接進出へと舵を切った。1602年に設立されたオランダ東インド会社は、インドのみならず東南アジアの香辛料市場への参入を明確な目標として掲げていた。

ほどなくオランダはポルトガルを凌駕する存在となった。1605年にはアンボイナ(アンボン)を押さえ、1619年にはジャカルタを征服して、その廃墟の上に新都市「バタヴィア」を建設した。1639年にはインドのゴアを包囲し、2年後の1641年にはポルトガルからマラッカを奪取した。1658年には、セイロンにおけるポルトガル最後の拠点をも制圧している。インド国内では、コロマンデル海岸、ベンガル、ビハール、オリッサ、グジャラートなどに交易拠点を開設し、香辛料、生糸、綿布、米、アヘンなどを主力商品として取り扱った。しかし1759年の「ベダラの戦い」でイギリスに決定的な敗北を喫したことで、オランダはインドから事実上退場することになる。とはいえ、東インド諸島における支配はその後も堅持された。

オランダ東インド会社によるインドネシア支配

18世紀半ば、ジャワのマタラム王朝は、領土と権力をオランダ東インド会社に明け渡さざるを得なくなった。1749年、オランダ東インド会社はジャワの事実上の統治者としての地位を確立したのである。

オランダによる香辛料諸島の搾取

オランダは東南アジアの島々を徹底的に搾取した。16世紀から18世紀にかけて、オランダはヨーロッパ随一の富国と見なされるほど繁栄していたのである。インドネシアの人々は何世紀にもわたり主食であるコメの栽培を営んできたが、オランダは彼らを半ば奴隷のごとく縛り上げ、国際市場でより高い利益を生むサトウキビやコーヒーの栽培を強制した。その結果、深刻な食糧不足が発生し、飢饉が島々を覆い尽くすことになった。

ナポレオン時代のインドネシア諸島

1789年から1799年にかけて、フランスでは政治的・社会的な大変革であるフランス革命が勃発した。やがて皇帝の座についたナポレオン・ボナパルトは、母国オランダを支配下に収めるとともに、インドネシアを含むその海外領土も掌握し、インドネシアにはフランスの主権が及ぶことになった。

イギリスによる短期間の統治

1811年、イギリスはナポレオンの勢力からインドネシア(ジャワ)を奪取した。スタンフォード・ラッフルズがこの地を統治したが、イギリスによる支配はごく短い期間にとどまった。ナポレオン失脚後のウィーン会議(1814〜15年)における決定に基づき、インドネシア諸島は再びオランダ(ホラント)へ返還されたのである。