古代の歴史

提督「トム・サム」の艦隊――航空支援を失ったZ部隊の苦悩

1941年秋、ロンドンの海軍本部では数週間にわたり激しい議論が交わされ、誰も譲ろうとしなかった。最終的にチャーチル首相が強行策を押し切り、戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスは、できる限りの自力で防衛せよという条件のもと、極東へと送られることになった。

シンガポールでは、この決定を歓迎する声が大半を占めたが、一部には悲観的な評価もあった。航空支援をまるで欠いた、あまりにも偏った艦隊編成だからである。本来ならZ部隊には新型航空母艦インドミタブルが加わるはずだったが、同艦は西インド諸島での試験航海中に損傷し、修理中であった。そもそもマレーのイギリス空軍(R.A.F.)には近代的な爆撃機が1機も存在しなかったのだ。

対照的な2隻

とはいえ、孤立無援となっても、この2隻は多くの観察者の目に強力な戦闘部隊として映っていた。確かに両艦はきわめて対照的だった。一方のプリンス・オブ・ウェールズは完成したばかりの最新鋭戦艦で、近代海軍建艦技術の旗手ともいうべき存在。他方のレパルスは、はるか昔の世代の戦闘艦から生き残った老兵であった。

レパルス――旧時代の生き残り

1916年に竣工したレパルスは、航空機がまださほど脅威ではなかった時代の産物である。2度の近代化改装を受けたものの、1941年当時なお、航空攻撃から艦を守るための水平防御装甲を欠いていた。艦長を務めたのはウィリアム・テナント中佐(後の提督)。彼は部下から深く敬愛される人格者として知られていた。

プリンス・オブ・ウェールズ――最新鋭ゆえの課題

重防御のプリンス・オブ・ウェールズは1941年にようやく竣工した。レパルスより低速で最大28.5ノット、基準排水量35,000トンと大型でありながら、卓越した水平防御を誇っていた。イギリス初の四連装主砲塔を採用した戦艦であり、当初は356mm砲12門の搭載が予定されていたが、うち2門分の重量が防御装甲の強化に回され、主砲は10門となった。これに加え、13.3cm両用砲16門、40mm対空砲60門、さらに多数の重機関銃を備えていた。

ジョン・リーチ大佐が指揮するプリンス・オブ・ウェールズは、就役後わずかな期間でありながら、すでに充実した経歴の持ち主だった。竣工して間もないままビスマルク追撃戦で初陣を飾り(砲戦時にも造船所の作業員約100名が艦上に残留していたほどである)、続いてチャーチルをニューファンドランドへ運び、ルーズベルトとの有名な大西洋憲章会談を実現させてもいる。ただし、一点だけ黒星があった。ビスマルクとの砲戦で、10門の主砲のうち5門が機械的故障を起こしたのである。開発不足を示す、憂慮すべき事実だった。

「不沈艦」と「匿名の艦」

シンガポール港に着くと、2隻の扱いの差はいっそう広がった。「不沈艦」あるいは「チャーチルのヨット」とあだ名されたプリンス・オブ・ウェールズは花形であり、要人たちの視察が相次いだ。一方のレパルスは「無名の艦」だった。艦名はシンガポールでは伏せられたが、これは敵に存在を隠すためという、無駄な試みにすぎなかった。むしろ、プリンス・オブ・ウェールズに同行する唯一の重要艦艇がレパルスであることを露呈する結果となったのである。乗員は艦内に足止めされ、私的な書簡の中で自分の居場所に言及することさえ禁じられた。

護衛する4隻の駆逐艦

2隻の主力艦には駆逐艦4隻が随伴した。エクスプレスとエレクトラの2隻は、本国艦隊きっての優秀艦である。残る2隻、オーストラリア籍のヴァンパイアとイギリスのテネドスは、故障した2隻の代艦として土壇場で選ばれたものであった。テネドスは燃料備蓄がこの種の作戦には不十分だったため、まもなく作戦から外れることになる。

提督「トム・サム」の懸念

イギリス極東艦隊を指揮していたのは、サー・トム・フィリップス提督である。元海軍参謀副総長で、並外れて聡明かつ有能な将官であり、小柄な体格から部下たちには「トム・サム(親指トム)」と呼ばれて親しまれていた。フィリップスは、Z部隊の能力を過大に信じていない数少ない一人だった。艦船がシンガポールに入港するとすぐに、彼は、託された任務の遂行など望むべくもないと悟ったのである。

12月3日、フィリップスはレパルスと駆逐艦2隻をポート・ダーウィンへ派遣する意向を表明した。公式には機動巡航のためとされたが、実際にはポート・ダーウィンを基地として利用できるか否かを調査することが目的だった。艦船は12月5日に出航したが、翌6日、シンガポールは日本軍の上陸船団がフランス領インドシナ南岸沖に出現したことを知り、艦船は急遽呼び戻された。

高まる不安、そして開戦の知らせ

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Z部隊の安全に対する懸念は日ごとに膨らんでいった。ロンドンですら、任務そのものよりも艦船の運命のほうが気にかかる有様だった。海軍本部はフィリップスに対し、東へ進んでアメリカ極東艦隊と合流することを提案した。チャーチル自身も当初の楽観論に立ち返り、「艦隊の移動は可能な限り秘密にせよ」と命じた。フィリップスはマニラへ飛び、ハート米海軍大将と会談し、太平洋における共通の海上戦略について合意を取り付けようとしていた。

そんな折、快晴の空の下に届いたのは、真珠湾、香港、フィリピン、タイ、そしてマレーへの日本軍攻撃の報せであった。