古代の歴史

古代日本:神話から国家形成への道

神話と建国:神武天皇の東征

「四方を青き山に囲まれた美しい国がある。そこへ行かんか」と、神武天皇(神倭伊波礼毘古命、後の神武天皇)は兄の五瀬命(いつせのみこと)に語りかけた。沈黙を承諾と受け取った神武は、決然として出発を命じた。伝承によれば、天孫族と出雲族の人々は九州から本州へと移住したのである。神武は民を船に乗せ、7年の歳月をかけて九州の海岸を周り、日本海へ入り、本州の西海岸に上陸した。東へ進み、平地に定住した彼らは、のちに大和政権を樹立し、日本民族形成の中心となった。

しかし、先住の豪族たちは神武を敵とみなし、激しい抵抗を見せた。特に長髄彦(ながすねひこ)の抵抗は激しく、神武は一時大和を離れることを余儀なくされた。敵が滅んだ後、神武は再び大和に戻り、まず三種の神器――鏡・剣・勾玉(まがたま)を納める神殿を建てた。これらは天照大神が孫のニニギノミコトに授けた統治の証とされ、神武はこれを以て神の子孫としての正統性を主張し、その権威を神聖なものとした。彼の征服事業は、首長連合から王(天皇)への政治的統合の基礎を築いた。日本書紀によれば、神武天皇は紀元前660年から紀元前585年まで統治し、没後「神武天皇(神の王・天の王)」と称された。

初期ヤマト政権の確立:崇神・垂仁・景行天皇の時代

崇神天皇の改革と祭政一致

神武以降、大和王権は世襲制をとった。初期には王は一族の長や部族長と大差なかったが、次第にその権勢は大和国内の他の首長たちへ及ぶようになった。王族が増えると、彼らに領地を分け与える慣習が生まれた。重要な変革をもたらしたのが崇神天皇(在位紀元前97年~紀元前30年)である。紀伝によれば、彼は初めて二種の税を定めた。男子は「弓矢の調(みつぎ)」として狩猟の成果を、女子は「手末の調」として織物を献上させた。また、四方に将軍を派遣し、「我が命を受けざる者あらば、兵を以て之を伏せ」と命じ、版図を拡大した。その名「崇神(神を敬う者)」が示す通り、彼は王であると同時に大和の最高祭祀長(大祭祀)でもあり、祭政一致の体制を強化した。

殉死の廃止と埴輪の起源

当時、王や王族の葬儀には生きた人間を殉葬する習慣があった。崇神の後を継いだ垂仁天皇は、この惨状を目の当たりにし、「生前に愛した者を死後にまで従わせるは忍びない。旧習といえど悪しきをなぜ守るか。殉死を止める策を考えよ」と臣下に命じた。陶工の頭・野見宿禰(のみのすくね)は、生人代わりに土偶(はにわ)を立てることを献策し、これを機に埴輪が墳墓に立てられるようになった。

遷都の習慣と伊勢神宮の創建

大和では代替わりごとに都を国内の新地に移す習わしがあった。理由は二つ。一つは、先王が住んだ宮殿(同時に神殿でもあった)を忌避したため。もう一つは、皇太子が別の本拠地を持ち、そこを都としたためである。やがて天照大神の命により、垂仁天皇の娘・倭姫命(やまとひめのみこと)が伊勢に常設の神宮を定め、以来、伊勢神宮の斎王(最高女官)は皇女が務めることになった。

景行天皇と日本武尊の遠征

景行天皇(在位71年~130年)の時代、大和の版図はさらに広がった。皇子・日本武尊(やまとたけるのみこと、「ヤマトの勇者」の意)は、九州の熊襲(くまそ)と北方の蝦夷(えみし)の反抗的な部族を討伐した。16歳で出陣した彼は、出発前、父王に逆らった双子の弟を殺害する冷酷さも見せた。熊襲の二酋長には計略を用いた。一人は女装して宴席に忍び込み、酔った隙に短刀で刺殺。もう一人とは偽りの友情を結び、入浴中に無防備なところを討ち取った。蝦夷討伐には10年を費やし、叔母の倭姫命(伊勢斎宮)から授かった火打石とスサノオの剣(後の草薙剣)で、敵が放った野火から脱出する伝説も残る。しかし、日本武尊は遠征の傷がもとで異国の地で没した。死の間際、父王へ「香り高き野辺に臥すも、命は惜しくない。ただ、再び御前に参れぬを恨む」と詠み、武人としての忠誠と悲劇を後世に伝えた。

ヤマト王権の強化と地方支配

戦争は王権強化の原動力となった。出陣時には王や近親者が軍勢を率い、戦利品の大半は王家・神社(王族が祭祀を司る)へ流れた。捕虜は王有地で働かせたり、職人集団(部民制)として王家に奉仕させたりした。征服地の豪族は臣下化し、貢納を義務づけられた。支配を固めるため、王は有力な皇族を地方の統治者(国造・県主など)として派遣した。

領土と人口が拡大すると、王一人での統治は困難になった。成務天皇(在位131年~190年)の頃、王の側近「大臣(おおおみ)」が初めて置かれ、地方には国造・県主らが任命される行政機構が整い始めた。

神功皇后と応神天皇:対外進出と技術導入

成務の後継・仲哀天皇(仲哀天皇)は戦いを好まなかったが、后・神功皇后が夢で新羅(朝鮮半島南部)の富饒な土地を見たとして遠征を進言した。仲哀は取り合わず、直後に熊襲の反乱で戦死した。神功は反乱を鎮圧し、新羅遠征を敢行した。多額の費用と労力を要し、国内では加古坂・忍熊皇子の反乱が起きたが、武内宿禰ら忠臣によって鎮圧された。

神功の子・応神天皇(在位270年~310年)は海外交易と造船に力を入れ、伊豆の海人(あま)に船500隻を献上させた(当時は丸木舟が主流)。新羅の使者が滞在する家屋近くで船が焼かれた事件を口実に、新羅から優秀な造船工を招き、彼らは世襲の造船集団を形成した。また、漁民を統合して漁部(りょうべ)を創設し、朝廷の独占的徴収に対抗させた。3世紀末には、錦織・盾・刀・弓・矢・玉作など10の職人集団(部)が皇子に属せられ、宮廷と貴族に奉仕する体制が整った。

応神朝には中国(呉)や百済から織工・陶工・鞍工・縫工ら渡来人が招かれ、技術移転が進んだ。阿知使主(あちのおみ)らが派遣され、文化の受容が本格化した。

仁徳・雄略天皇の内政と経済発展

応神没後、皇位継承をめぐる内紛で長子は殺され、次子は自害し、三男の仁徳天皇(在位313年~399年)が即位した。高楼に上り「民の竈(かまど)に煙立たず」と嘆いた仁徳は、租税を3年間免除し、自らは古衣・穿た靴で過ごし、宮殿の雨漏りを放置して民と苦楽を共にした。農業(稲作)と漁業を基幹産業とし、鉄製農具(鍬・鋤・鋤)の普及、牛耕の導入、灌漑用水路・堤防・溜池の建設など大規模な水利事業が進められた。

雄略天皇(在位457年~479年)は養蚕振興に努め、絹織物技術を持つ秦氏(はたうじ)を集住させ、桑の栽培と養蚕指導を全国に広めた。仁徳・雄略の両朝で経済基盤は充実し、王権は最盛期を迎え、豪族の干渉を許さない強力な体制が築かれた。しかし、王族内部の抗争が絶えず、へグリ氏の麻呂が幼帝・武烈天皇(在位499年~506年)から簒奪を図るも、軍事貴族(物部・大伴ら)に討たれ、一族は滅亡した。

豪族抗争と仏教の受容:聖徳太子の改革

6世紀に入ると王権は衰退し、再び有力豪族が実態を握った。物部氏(守屋)と蘇我氏(馬子)の決戦で物部氏が滅び、蘇我氏が台頭した。この戦いで活躍したのが、蘇我氏方の厩戸皇子(聖徳太子、16歳)である。伝承では、四天王を描いた兜を被り戦ったとされる。仏教は552年(または538年)、百済から金銅仏像と僧侶が伝来したのが公式な始まりとされる。聖徳太子は仏教を保護・推進し、その教えを政治理念に取り入れようとした。

十七条憲法の制定

604年(推古天皇12年)、聖徳太子は「十七条憲法」を制定した。これは律法ではなく、官吏・豪族への道徳的・政治的心構えを説いたものである。主な条文は以下の通り。

  • 第3条:詔(みことのり)を受けたら必ず従え。従わねば自ら滅ぶ。
  • 第4条:臣下は法を基準とせよ。上に法なければ下に秩序なく、下に法なければ罪必ず生ず。
  • 第5条:訴訟は公正に、貪欲にまみえず裁け。
  • 第8条:早朝出仕し、日暮れまで務めよ。公務は多し。
これらは儒教的倫理と仏教的慈悲を融合させ、中央集権的な官僚制国家の理念を示した画期的なものだった。

「日本」へ:古代国家への移行

7世紀半ば、大化の改新(645年)を経て、ヤマトは「日本(にっぽん・にほん)=日の本(ひのもと)」と国号を改め、律令国家への道を歩み始めた。古代日本の夜明けは、神話の時代から歴史の時代へと、確実に舞台を移していったのである。