古代の歴史

アルゼンチンの独立:五月革命から連合州の独立宣言まで

アルゼンチン独立の発端:イギリス軍の侵攻

植民地時代、現在のアルゼンチン一帯はリオ・デ・ラ・プラタ副王領として統治されていました。アルゼンチンの独立運動の口火を切ったのは、1806年にイギリス艦隊がブエノスアイレスを占領した事件です。当時の副王ソブレモンテはコルドバへ逃亡し、統治体制は大きく揺らぎました。

この危機に際し、クリオージョ(現地生まれのスペイン系住民)であるサンティアゴ・デ・リニエルスが市民軍を指揮してイギリス軍を撃退。その功績が認められ、評議会の推薦により王冠から副王に任命されました。しかし翌1807年、イギリスはより強力な遠征軍を送り込み、モンテビデオを制圧してブエノスアイレス攻略を試みますが、再び撃退されました。その後、リニエルスは王政支持派のシスネロスと交代することになります。

五月革命――最初の自治政府の誕生

イギリス軍を自力で退けた経験は、クリオージョたちに自らの軍事的実力と商業的自律性への自信をもたらしました。1810年5月、母国スペインでセビリア評議会(中央フンタ)が崩壊したとの報せが届くと、彼らは公開カビルド(オープン・カビルド)を開催し、フェルナンド7世の名において地方評議会を設立します。

そして1810年5月25日、激しい意見対立を経て政府評議会(第一次評議会)が発足しました。これはラ・プラタ地方初の自治機関です。評議会の書記官マリアーノ・モレノは強硬路線を推し進め、副王および王党派を追放し、さらにコルドバで反乱を起こしたリニエルスを銃殺刑に処しました。

周辺地域の統合と挫折

モレノは東方バンダ(現在のウルグアイ)やパラグアイを評議会の管轄下に置こうと試みました。また、北方軍を率いるマヌエル・ベルグラーノ将軍は武力による上ペルー(現在のボリビア)併合を目指しましたが、王党派軍との戦いで敗北を重ね、この試みは挫折します。

独立宣言とサン・マルティンの大陸解放計画

1816年7月9日、ラ・プラタ会議(トゥクマン会議)はリオ・デ・ラ・プラタ連合州の独立を正式に宣言し、フアン・マルティン・デ・プエイレドンを最高長官に任命しました。一方、ホセ・デ・サン・マルティン将軍はメンドーサに拠点を築き、アンデス山脈を越えてチリ、ペルー、上ペルーを解放するという壮大な作戦を立案していたのです。この計画は、後に南米全体の解放へとつながっていきました。