古代の歴史

薔薇戦争の背景にある確執とは?百年戦争が引き金となったイングランド王位継承問題

イングランドとフランスが領土とフランス王位をめぐって戦った百年戦争(1337年〜1453年)。その後半頃から、イングランド国内にも内部分裂の兆しが現れ始めます。やがてイングランド王がフランス王をも兼ねるというトロワ条約の締結にまで至り、分裂の危機はひとまず回避されたかに見えました。

しかし、ジャンヌ・ダルクの登場によって戦況は逆転し、イングランドはフランス領をほぼ失うことになります。ここでかつて燻っていた内部分裂の危機が再燃し、それが薔薇戦争へとつながっていったのです。

今回は、戦争責任をめぐる貴族間の責任転嫁という側面にも触れながら、薔薇戦争の背景をまとめていきます。

そもそも薔薇戦争は誰と誰が戦ったのか?

薔薇戦争は、イングランドの大貴族であるランカスター家とヨーク家による、王位継承をめぐる争いです。

薔薇戦争という名称の由来は、両家が異なる紋章(身分を示すために衣服につける帽子やバッジ)を持っていたことにあります。ランカスター家の紋章は赤薔薇、ヨーク家の紋章は白薔薇でした。

そもそもランカスター家は、百年戦争の最中にプランタジネット朝から王位を奪った家です。そのため薔薇戦争が始まる頃には、すでに王家としての地位を確立していました。このランカスター家に対して王位継承に挑んだのがヨーク家だったのです。

ランカスター家・ヨーク家それぞれとプランタジネット朝との関係は、百年戦争を引き起こしたエドワード3世まで家系図をさかのぼると見えてきます。

エドワード3世の息子たちと爵位

エドワード3世は新たにランカスター公とヨーク公の称号を創設し、息子たちに与えました。長男のエドワード黒太子にはコーンウォール公の称号が与えられています。

エドワード3世の晩年、父に代わって国政の実権を握っていたのがランカスター公ジョンでした。帰国した黒太子は弟ジョンから主導権を取り戻しますが、ほどなくしてこの世を去り、その息子リチャード2世が王位を継ぎます。しかしリチャード2世は治世中に廃位され、ここでプランタジネット朝の直系は途絶えることになりました(リチャード2世の死因については餓死説・自殺説・他殺説など諸説あり、詳細は不明ですが、ヘンリー4世の関与が疑われています)。

そしてジョンの息子ヘンリー4世が王位に就き、王朝はランカスター朝へと移りました。

ランカスター家の王位継承は正当だったのか?

しかし、リチャード2世は生前、自身に嫡出子がいなかったこともあり、エドワード3世の第三子ライオネルの孫を王位継承者に指名していました(第二子は早逝)。当時のイングランドでは長子相続(プリモゲニチュア)の原則が採られており、原則に忠実に従うなら、王位はライオネルの子孫へ継承されるはずだったのです。

つまり、「ランカスター家による王位継承は果たして適切だったのか?」という疑問が、ほかの貴族たちの心の中に芽生え始めていました。フランスとの戦いで優勢なうちは「強大なイングランドになりつつある」と受け止められていたかもしれませんが、その優位性が失われたとき、対等な立場にある貴族たちはランカスター家への疑問を抱かずにはいられなかったのです。

なぜヘンリー6世の即位には疑問符がついたのか?

これもランカスター家の家系図をたどると見えてきます。

ランカスター朝の最盛期を築いたのがヘンリー5世です。彼は百年戦争において、当時のフランス王シャルル6世との間に、「自分(ヘンリー5世)の死後にフランス王位を継承する」という内容のトロワ条約を締結しました。

ただし、単にフランス王位を継承するだけでは正統性に疑問を抱く者もいるため、王位継承とあわせてシャルル6世の娘との婚姻も取り決めています。

このヘンリー5世とシャルル6世の娘の間に生まれた子がヘンリー6世です。彼は穏やかで敬虔な平和主義者でした。

結局、ヘンリー5世はシャルル6世より先に亡くなったため、シャルル6世の死後、ヘンリー6世がイングランド王とフランス王を兼任することになります。

※シャルル6世の子シャルル7世は、「トロワ条約は『ヘンリー5世が継承する』という約束だった」として、この王位継承を認めませんでした。

「狂王」から受け継がれた病

そんな中で深刻な問題が発生します。ヘンリー6世に精神の異常が現れたのです。

そもそもシャルル6世は「狂王」と呼ばれた人物で、晩年は自らが王であることすら分からなくなるほど重い精神病に苦しんでいました。この精神病の遺伝子が(おそらく)ヘンリー6世にも受け継がれたと考えられています。

発症時のヘンリー6世には、すでにフランスヴァロワ朝の分家出身のマーガレットとの間に子(エドワード)がもうけられていました。マーガレットは病の夫と幼い子を守るため、摂政として政治を担うことになりますが……。

マーガレットはフランス貴族の出ということもあってイングランド貴族から憎まれ、ついに人心をまとめることができませんでした。

なぜヨーク家のリチャードは反旗を翻したのか?

マーガレットがイングランド貴族の反発を買う少し前、百年戦争におけるイングランドの敗色が濃くなるにつれ、国内は和平派と抗戦派に分裂していきます。和平派は国王に近い勢力で、抗戦派の一角を代表していたのがヨーク家のリチャード・プランタジネットでした。

結局、百年戦争はマーガレットとヘンリー6世の婚姻によってフランス側に有利な形で終結したため、抗戦派のリチャードは追い詰められていきます。

そんな折、ヘンリー6世が精神疾患を発症しました。追い詰められていたリチャードは、

  • ヘンリー6世はもはや国政を担えない
  • マーガレットの摂政政治は不満しかない

といった理由から、王位を狙って動き出します。その根拠は家系図から読み取ることができます。

実はリチャード2世には嫡出子がおらず、マーチ伯ロジャー・モーティマーを王位継承者に指名していました。これは長子相続の原則に基づいた指名です。

ところが彼はリチャード2世の廃位の直前に亡くなったため、その息子エドマンドが継承権を手にします。このエドマンドはランカスター朝への忠誠を示し続けたため内乱には発展しませんでしたが、子のないまま亡くなると、姉アンの息子であるリチャード・プランタジネットへと王位継承権が移っていったのです。

こうして百年戦争の終結前後の時期には、次のような状況が揃っていました。

  • リチャードが王党派との対立に追い込まれていたこと
  • 戦地からの帰還兵に加え、私兵を抱えた大貴族たちが存在したこと
  • リチャードが王位継承を主張できる大義名分を持っていたこと

王党派と反王党派は対立を深め、ついに薔薇戦争へと突入することが決定したのです。

次回の記事では、「薔薇戦争の流れ」について詳しく追っていきます。