古代の歴史

古代ローマ共和国とは?王政から共和政、帝政への歩みを徹底解説

紀元前509年、ローマはそれまでの王政を打倒し、共和政(共和国)へと移行しました。イタリア中部の一都市国家にすぎなかったローマは、やがて地中海全域を支配する大国へと成長します。その後のローマ帝国の繁栄は、「パックス・ロマーナ(ローマの平和)」と呼ばれるほど圧倒的なものでした。

今回は、そんな共和政ローマについて、政治体制の変化から領土拡大、内乱に至るまでの歩みを詳しく見ていきましょう。

古代ローマの領土変遷

王政ローマから共和政ローマへ

王政ローマの時代、独裁的な権力を振るっていたのは、北方の勢力エトルリアと深い関係を持つ王でした。紀元前509年頃、その王が追放されたことを機に、ローマは共和政ローマへと体制を転換します。それまでの反省点を生かした制度改革でした。

政治体制の変化

共和政の初期、最高位の官職である執政官(コンスル)は定員2名・任期1年とされました。コンスルをはじめとする公職は貴族(パトリキ)が独占し、貴族が元老院の議員を兼ねるという状況でした。

また、独裁官(ディクタトル)は、国家の危機を乗り切るために設けられた非常時の指導者のポストで、コンスルの中から一人が指名されます。

こうして共和政ローマが誕生しましたが、その実態は「貴族による、貴族のための政治」に傾いていたのです。

王政ローマとの比較

伝えられるところによれば、王政ローマの政治体制は、ローマ市民が民会を通じて有力な貴族の中から王を選び、貴族で構成される元老院が王を補佐・助言する仕組みでした。

しかし王は終身制であり、元老院や民会の意思を無視することも可能でした。6代目以前の王政と比べると、むしろ劣化しているように見える部分もあります。7代目の王の時代があまりにもひどかったことは差し引くとしても、そうした背景を考えれば、市民が貴族優先の体制に不満を抱いたのは当然といえるでしょう。

周辺諸国との関係の変化

王政から共和政への移行は、周辺諸国との関係にも変化をもたらしました。

共和政ローマとなった歴史の背景には、以下のような事情があります。

  • 第7代の王による専横
  • 王政ローマが北のエトルスキ人(エトルリア)の従属国的な存在だったこと

こうした事実に対する不満が根底にあったためです。

当然ながら、エトルリア側にとってローマの共和政移行は好ましい話ではありません。彼らはローマに圧力をかけてきます。さらに、第7代の王がエトルリアと結んで周辺諸国と戦争を繰り返していたため、ローマと近隣諸国の関係は非常に悪く、戦争も頻発しました。

だからこそローマは軍事的に強くなっていきました。強くなければ、すぐに滅ぼされていた可能性すらあります。

戦争に勝つために、ローマは周辺地域の人々や戦争の敗者を受け入れる姿勢を貫きました。この姿勢は王政時代から変わっていません。兵力の確保だけでなく、軍事技術も確実に蓄積され、共和政ローマはますます強大になっていったのです。

共和政ローマの躍進

周辺諸国との関係が悪化する中で軍事力を手に入れたローマは、次第に近隣諸国を支配下に置いていきます。

軍事国家の中心にあったのは貴族ではなく、ローマの平民(プレブス)でした。古代東西を問わず、軍事力を持つ階級の人々が発言権を増していくのはよくあることで、共和政ローマもその一例です。

身分闘争のはじまりと変化

本来、ギリシャのポリスでは民主政への移行の過程で、財産額に応じた制限付きの参政権を獲得していきました。一方ローマでは、形は違えど財産制の参政権がすでに王政時代から存在していました。

おそらく王政ローマの時代には、政治に発言力を持つ人々の集団が育っていたのでしょう。

ローマ市民権は、多額の出資ができる人ならローマ以外の人でも取得でき、またローマに多大な貢献をした人にも与えられました。どちらも政治的に発言できる層です。周辺諸国との戦いが続けば、この階層のローマ市民は増えていったと考えられます。

王の暴走によって貴族に政治の主導権が渡ったものの、戦争が増えるにつれ、この階層の人々はますます力をつけ、声を上げていきました。

もちろん、経済力や軍事力を持つ人々を黙らせておくことはできません。平民の政治的発言力は高まっていきます。これは紀元前5世紀〜3世紀のことです。具体的には……

【紀元前5世紀】

  • 護民官の設置(コンスルや元老院に対する拒否権を持つ)
  • 平民会の創設:平民の権利を保護
  • ローマ最古の成文法「十二表法」の制定:貴族が独占していた法律知識が平民に広まる

【紀元前4世紀】

  • リキニウス・セクスティウス法の制定:コンスルの一人を平民から選出

【紀元前3世紀】

  • ホルテンシウス法の制定:元老院の承認なしに、平民会の決議がローマの国法として認められる

これらの変化により、ローマは内実を充実させていきます。紀元前298年にはイタリア半島中部・南部の一部を支配し、約30年後にはイタリア半島全土を掌握しました。

ローマの挫折

着実に国力を増し、イタリア半島全土を支配した共和政ローマですが、大きな問題に直面します。それは食糧問題です。

イタリア半島は地理的特性上、北部が穀物の収穫に適しています。南部はテラ・ロッサ(赤色土壌)が広がり、オリーブ、柑橘類、ぶどうなどの作物が多く生産されます。

しかし、オリーブやぶどう、柑橘類だけでは生きていけません。中部・北部でも小麦は栽培されていましたが、量は圧倒的に不足していました。小麦の供給基地を早急に確保する必要があったのです。

そこで白羽の矢が立ったのがシチリア島です。長靴のつま先側に位置する三角形の島です。

シチリア島のほぼ半分はカルタゴ領でした。実際、住民だけでなく島自体が、北アフリカのカルタゴの支配下にあったのです。

目をつけられたカルタゴ側が怒るのは当然です。こうしてポエニ戦争が始まりました。

※食糧問題に加えて、商業覇権をめぐる戦いだったともいわれています。

ポエニ戦争と内乱の勃発

紀元前264年に始まったポエニ戦争では、ローマが序盤で勝利し、シチリア島を支配します。しかし中盤、カルタゴの名将ハンニバルの活躍により、ローマの戦況は悪化しました。イタリア半島の大部分がカルタゴの支配下に入った時期さえあります。

※そもそもカルタゴはフェニキア人の植民都市に起源を持ち、「ポエニ(Poeni)」はラテン語で「フェニキア人」を意味します。カルタゴは母体であるフェニキア本土(紀元前9〜8世紀頃に衰退)の没後も繁栄を続けました。

いずれにせよハンニバルは数々の戦いに勝利しました。現代でも戦術の参考にされる人物です。

しかし、戦争で勝っても統治の才はありませんでした。寛容な統治に慣れたローマ市民にとって、カルタゴの支配は馴染みにくいものでした。ローマ市民はハンニバルの猛攻を恐れながらも戦い続け、ハンニバルをイタリア半島に釘付けにすると、今度は逆にカルタゴ本国へ侵攻することに成功します。カルタゴの力は大きく削がれました。

そしてついに紀元前149年〜146年、カルタゴは滅亡へと追い込まれます。さらに紀元前30年には女王クレオパトラのプトレマイオス朝も滅び、ローマは西地中海を手中に収めたのです。

ローマの兵士(レギオナリウス)

ローマ市民には、祖国を守る兵士として戦う義務がありました。ローマ市民は直接税を納めていませんでしたが、非常時には自前の装備で兵士として活躍したのです。

古代日本の兵士とは異なり、戦場に行くためのお金や食料を用意する必要はなく、ローマ市民は軍から戦時の手当てと食料の支給を受けていました。

さらに、戦争中は略奪の権利があり、紀元前4世紀頃からは日当も支払われるようになりました。ローマ市民にとって戦争は、ある意味で生活を支える手段でもあったのです。

ポエニ戦争後の変化とは?

カルタゴを破り領土を広げたローマは、再び大きな壁にぶつかります。

一大小麦生産地となったシチリア島の獲得により、小麦の価値が暴落しました。日当をもらい略奪もできるなら、わざわざ小麦を作ろうとする人は減りますし、そもそも長期戦のために農作業をする余裕がない人も出てきます。イタリア半島の農民たちは戦場へ向かい、農地は荒れ果て、安いシチリア産の小麦を買うようになっていきました。

しかし戦争が終わると、兵士たちは収入の手段を失います。荒れた農地は、以前の収穫量に戻るほど簡単なものではありません。

売る側・作る側に目を向けても、シチリア産の小麦の方が安く、イタリア半島産の小麦は売れず、半島に暮らす農民たちの生活は苦しくなりました。

こうして多くの農民が没落していきます。

一方で、富裕層が多数生まれることにもなりました。

ポエニ戦争では多くの捕虜が生まれ、その多くは奴隷市場に売られました。奴隷を手に入れた富裕層は広大な土地を占有し、奴隷を使った大規模農園経営(ラティフンディウム)を行います。さらに、荒れた農地を見限って手放す農民もいたため、富裕層はますます力をつけていきました。

貧富の差の行き着く先は、想像に難くないでしょう。

内乱の勃発と帝政への移行

ローマの有力者たちは、没落した平民の気を晴らすために、食料の配給や闘技場での興行などを提供しました。かろうじて民衆の反乱は防げたものの(詩人ユウェナリスはこれを「パンとサーカス」と皮肉りました)、矛盾に耐えきれず、ローマは紀元前2世紀〜1世紀にかけて内乱の時代へと突入します。

この混乱の後に登場したのが、独裁的な政治家(ユリウス・カエサル)です。ここに至り、ローマが帝政ローマへと変貌を遂げることは決定的となりました。