古代の歴史

フランスにおける奴隷制度の廃止 ― 1848年4月27日

背景:フランスにおける奴隷制廃止への歩み

フランスは、ヨーロッパで唯一といえるほど早くから廃止主義(アボリショニズム)の政治クラブを持っていた国です。1788年に創設された「黒人友の会(Société des amis des Noirs)」がそれにあたります。1789年の陳情書(カイエ・ド・ドレアンス)には、この会による知的活動の痕跡が残されており、奴隷解放の問題は数多くの要求の中に埋もれながらも、確かに存在していました。

第一共和政下の国民公会(山岳派)は、1794年2月4日の法令によって奴隷制を廃止しました。ところが1802年、ナポレオン・ボナパルトはこの決定を覆します。かつて与えた奴隷の自由を撤回した植民地大国は、フランスだけでした。当時の奴隷所有者たちは、テロの時代におけるフランス革命の暴力的なイメージを利用し、それを1794年の法令と結びつけることで、この問題について冷静な議論を行うことを困難にしていたのです。

その後、七月王政期にも廃止論者によって奴隷解放法が提案されましたが、実現は先送りされました。そして1848年、「諸国民の春」と呼ばれる革命の波がフランスを包み込み、第二共和政が誕生すると、奴隷制廃止の問題はついに世論の中心へと戻ってきたのです。

日付

1848年4月27日

主要人物

ヴィクトル・シェルシェル(Victor Schœlcher)

経緯

七月王政に取って代わった共和政臨時政府は、拡大された政治的自由の枠組みの中で、一連の社会改革を実施しました。失業者のための国立作業場の創設、政治犯に対する死刑の廃止、そして男子普通選挙の確立などです。

こうした改革の一環として、奴隷制廃止への意志も示されました。1848年3月5日、奴隷制廃止委員会が設置されます。委員長を務めたのはヴィクトル・シェルシェルです。彼は1830年代の植民地旅行で奴隷制の実態を目の当たりにした共和主義者であり、この問題について分析や政治的提言を含む複数の著書を執筆するとともに、臨時政府では植民地次官を務めていました。

特筆すべきは、この委員会が史上初めてプランター(農園主)の代表を一切含まなかった点です。その主な目的は、奴隷を自由とする法令の条件を定めることにありました。協議の作業を終えた委員会は、4月27日に政府へ法令案を提出します。廃止の本文には、植民地の社会生活に関する他の法令も添えられていました。政府の全閣僚が署名したわけではありませんでしたが、法令は同年5月3日付で『万有箴言報(Le Moniteur universel)』に掲載されたのです。

影響

  • 廃止令は公布から2ヶ月後に発効する予定でした。しかしそれに先立ち、本国フランスからの新法の知らせを受け取った奴隷たちによって、特にマルティニークで反乱が勃発します。その結果、プランター側には奴隷の自由の代償として補償金が支払われることとなりました。
  • フランス政府の迅速な意思決定は、イギリスの廃止論者たちから称賛を受けました。一方、カリブ海のデンマーク領植民地では、自由を求める奴隷たちによる反乱が相次いで発生しました。