時代背景:揺らぎはじめた第三共和政
第三共和政は、第一・第二共和政の失敗と比べれば一定の政治的安定を保ってきたが、体制末期のフランスは数々の動揺に見舞われていた。第一次世界大戦後の高揚感はすでに消え失せ、それとともに人々の希望も色褪せていった。
1929年、アメリカの株価大暴落を発端とする世界恐慌は、同国を大不況へと陥れたが、その波は1930年代初頭にフランスにも押し寄せ、深く根を張ることになった。経済危機は社会対立を激化させ、左右両極の勢力の台頭を促す結果となる。
政局は混迷を極め、多くの内閣が次々と交代しても、真の解決策は見出されないままだった。1933年11月、共和国大統領アルベール・ルブランに組閣を命じられた急進社会党のカミーユ・ショータンが、閣僚評議会議長(首相)の座に就いた。

主な登場人物
- アレクサンドル・スタヴィスキー(Alexandre Stavisky)
- カミーユ・ショータン(Camille Chautemps)
- エドゥアール・ダラディエ(Édouard Daladier)
- アルベール・ダリミエ(Albert Dalimier)
- ガストン・ボノール(Gaston Bonnaure)
- ジャン・キアップ(Jean Chiappe)
- フランソワ・ド・ラ・ロック(François de La Rocque)
事件の経緯
スタヴィスキー事件は、第三共和政末期にあたる1931年から1934年にかけて起こった。「美男子サシャ」の異名を持ち、度重なる詐欺行為で知られていたアレクサンドル・スタヴィスキーは、バイヨンヌ市立信用金庫(クレディ・ミュニシパル・ド・バイヨンヌ)に対し、同市長で急進社会党員のドミニク・ジョゼフ・ガラの内通のもと、担保付き利付貯蓄証券を総額2億3500万フラン分にわたって発行させていた。ところが、実際の裏付けは発行額のわずか10%程度しかなかったのである。
事件が発覚したきっかけは、財務省による監査だった。1933年12月23日、同金庫の支配人ギュスターヴ・ティシエが逮捕される。
スタヴィスキーは、警察や報道機関、司法、政界などあらゆる相手に賄賂を贈って取り込み、自らの保身を固めてきた男だった。その証拠に、ショータン首相の義兄でもあるプレッサール判事のもとでは、彼の公判が実に20回近くも延期され続けた。また、パリ警視総監ジャン・キアップも捜査を意図的に遅らせていた嫌疑をかけられた。
さらに、この事件の捜査に執念を燃やす司法官アルベール・プランスが、調査結果を法務大臣アンリ・シェロンへ提出しようとした矢先に暗殺され、シェロン自身も間もなく辞任に追い込まれた。
こうしてスキャンダルは政界全体へ飛び火し、ダリミエ、ボノール、ショータンら多くの政治家が疑惑の渦中に置かれることになった。逃亡したスタヴィスキーはシャモニーの山荘に潜伏したが、警察の追跡網は容赦なく迫る。追い詰められた悪名高い詐欺師は、1934年1月8日、頭部を拳銃で撃ち抜き、「公式には」自殺を遂げた。
しかし、この説明を鵜呑みにする者は誰もいなかった。世論を先取りした各紙は一斉に他殺説を訴え、「スタヴィスキーは自殺させられた!」「スタヴィスキーは約3メートル離れた場所からの銃弾で死んだ――なんと長い腕だろう!」といった痛烈な見出しが紙面を飾った。
事件の影響
スタヴィスキー事件は、フランス政治史における重大な転換点の一つとなった。1934年2月初旬、事件を契機にパリでは暴動級の示威行動が相次いだ。2月6日には、アクション・フランセーズや火十字団(クロワ・ド・フー)などの極右団体に加え、一部の共産主義者までが「泥棒どもを倒せ」のスローガンの下に結集し、現行の議会制への拒絶を示しながら、パリ・コミューンを彷彿とさせる蜂起(1934年2月6日の危機)へと発展した。
この騒乱の結果、ショータン内閣が総辞職し、後を継いだエドゥアール・ダラディエ内閣も短期間で退陣を余儀なくされた。一方、これをファシズムによるクーデター未遂と捉えた左翼勢力は、史上初めて団結の道を選び、ここに「人民戦線」が誕生する。人民戦線は1936年の総選挙で勝利を収め、数々の社会改革を通じてフランスの政治地図を大きく塗り替えることになるのである。