古代の歴史

スターリングラードの戦い――独ソ戦の運命を分けた歴史的決戦

スターリングラードの戦いとは

1942年夏から1943年2月2日にかけて、ソ連の工業都市スターリングラード(現在のボルゴグラード)を巡って繰り広げられたのが、スターリングラードの戦いです。ドイツ軍とソ連軍が市街の一角を奪い合う壮絶な攻防は、第二次世界大戦における最大級の転換点となりました。

期間: 1942年夏 ~ 1943年2月2日

スターリングラードの戦い――独ソ戦の運命を分けた歴史的決戦

主要人物

  • アドルフ・ヒトラー(ドイツ総統)
  • ヨシフ・スターリン(ソ連書記長)
  • フリードリヒ・パウルス(ドイツ第6軍司令官)

開戦までの経緯

  • 独ソ間で不可侵条約が結ばれていたにもかかわらず、ヒトラーは1941年6月22日、ソ連侵攻を目的とした「バルバロッサ作戦」を発動しました。約300万人の兵士が東部戦線を開き、不意を突かれたソ連軍は大きく押し込まれます。ドイツ軍は同年10月には首都モスクワの目前にまで到達しました。
  • しかし、1941年4月に日本と調印した日ソ中立条約のおかげで、スターリンは極東に配備していた精鋭部隊を西部戦線へ再配置することに成功します。さらに例年になく厳しいロシアの冬がドイツ軍を襲い、モスクワ前面での進撃は停止しました。
  • 1942年、ヒトラーは新たな攻勢を決意します。軍を南へ向け、コーカサス地方へ進めて原油などの資源確保を目指す一方、スターリングラード方面にも進軍させました。同市の占領はナチス政権にとって大きな象徴的意味を持つうえ、戦車生産の重要拠点でもありました。当初は副次的な目標にすぎなかったスターリングラード攻略が、次第に作戦の主目標へと変貌していきます。こうして前線は幅60キロメートルにわたって展開されることになりました。

作戦の経緯

ヒトラーからスターリングラード占領を命じられたパウルス将軍は、8月19日に市への攻撃を開始しました。スターリングラードは大河ヴォルガ川の河岸に位置する要衝です。9月13日、ドイツ軍は大規模な総攻撃を仕掛け、以降の市街戦は激烈を極めました。ソ連軍は家屋一軒一軒を舞台に徹底抗戦しますが、ドイツ空軍は市内へ猛烈な爆撃を加え続けました。

1942年10月までにドイツ軍は市の大部分を制圧し、ソ連側の手に残されたのはヴォルガ川沿いのわずかな細長い土地だけとなります。パウルスは冬が来る直前に、スターリングラードのほぼ制圧を総統へ報告しました。しかしそれでもロシア側の抵抗は衰えず、援軍の兵士たちは船でヴォルガ川を渡って次々と送り込まれます。また、爆撃を避けて地下や後方へ移されていたロシアの工場は、武器弾薬の生産記録を塗り替え続けました。

そして11月19日、ソ連軍の反攻「ウラヌス作戦」が発動されます。狙われたのはドイツ軍の両翼であり、そこを守備していたのはルーマニア、ハンガリー、イタリアといった枢軸同盟国の部隊でした。彼らはドイツ国防軍(ヴェールマハト)に比べて装備も訓練も劣っていました。午前5時、強力な砲撃支援のもと、ソ連軍は北と南から一斉に突撃を開始します。23日には南北のソ連軍が合流し、スターリングラード市内のパウルス軍約30万人を完全に包囲しました。

ヒトラーはパウルスに対し、増援を送ると約束したうえで「何としても持ちこたえよ」と命令します。しかし空からの補給は必要量に遠く及ばず、零下数十度にもなる厳冬が兵士たちを蝕んでいきました。飢えと凍と凍傷、弾薬の枯渇の中で、ドイツ軍はソ連軍の攻勢に耐え切れなくなります。

壊滅的な損害を重ねた末、ドイツ第6軍は1943年2月初頭に遂に降伏しました。9万人を超えるドイツ兵が捕虜となり、そのうち将校は約2,500名に上りました。生きて故郷に戻れた者はごくわずかだったといわれています。

戦いの結果と影響

  • スターリングラードにおけるドイツ軍の敗北は、ナチス・ドイツの膨張に対する最初の重大な挫折となりました。同じ1942年11月には、北アフリカのエジプトで行われたエル・アラメインの戦いにおいても、イギリス軍がドイツ軍を撃破しており、戦局は連合国側へと傾き始めます。
  • この戦いでは兵士約75万人、市民約25万人が命を落とし、人類史上最も犠牲者の多い戦闘の一つとなりました。
  • 東部戦線にドイツ軍が依然として深く展開していたとはいえ、心理的衝撃は計り知れないものでした。ヒトラー自身が大きなショックを受け、東方への拡張がもはや不可能であることを悟ります。同時にドイツ国民の間にも、「第三帝国は無敵ではない」という認識が広がり、戦争の帰趨を疑問視する空気が生まれ始めました。