古代の歴史

電撃戦(ブリッツクリーク)とは?第二次世界大戦でドイツ軍が用いた戦術の全貌

第二次世界大戦と新たな戦争の形態

第二次世界大戦は、それまでに類を見ない規模の産業力を動員した対決となりました。第一次世界大戦中に開発された戦車は大幅に改良され、同様に航空機も、敵陣後方への攻撃任務に適したものへと進化していきました。

ドイツが学んだ第一次世界大戦の教訓

ドイツは第一次世界大戦の教訓を真剣に受け止めていました。当時の敗北は、陣地戦の状況下における経済封鎖が大きな原因だったからです。そのため、敵に包囲網を完成させる余裕を与えず、迅速に戦線を突破することが求められるようになりました。

フランスとドイツ、対照的な装甲戦力の運用思想

装甲部隊の運用に関する戦略は、国によって大きく異なっていました。シャルル・ド・ゴールの警告にもかかわらず、マジノ線の建設に象徴されるように、フランスは陣地戦のモデルにとどまり続けました。一方のドイツは、包囲を回避するために機動戦への回帰を目指していたのです。

ハインツ・グーデリアンと「電撃戦」の誕生

ハインツ・グーデリアン将軍は、「ブリッツクリーク(電撃戦)」と呼ばれる攻撃戦略を確立しました。これは、前線の一地点に装甲部隊を集中させて敵の防御体系を突破し、その後、部隊を高速で移動させることで敵部隊の包囲や戦略目標の破壊を実現するというものです。その狙いは、相手の戦闘能力と指揮系統を短時間で弱体化させることにありました。

対象期間:1940年~1942年

主要人物

  • ハインツ・グーデリアン
  • シャルル・ド・ゴール
  • ゲオルギー・ジューコフ
電撃戦(ブリッツクリーク)とは?第二次世界大戦でドイツ軍が用いた戦術の全貌

経過

この戦術は開戦後最初の2年間で大きな成功を収め、ポーランドとフランスをわずか数週間で屈服させました。フランス方面では、1940年5月10日にマジノ線を迂回する形で攻勢が開始され、同年6月22日をもって作戦は終了しました。この結果、包囲されたフランス軍の将兵が大量に捕虜となり、ナチス・ドイツはフランス当局に対する追加的な圧力手段を手に入れることになりました。

こうしてドイツ国防軍(ヴェーアマハト)は、技術的装備が必ずしも優れていなかったにもかかわらず、勝利を収めることに成功したのです。

この手法は、1941年6月22日に開始されたバルバロッサ作戦でも有効に機能したかに見えました。急速な進撃により、国防軍は1941年10月にはモスクワ近郊まで到達します。しかし、厳冬の到来によって装備が使用不能となり、ドイツ軍は後退を余儀なくされました。ソ連の指揮中枢も工業地帯も打撃できなかったことで、電撃戦に不可欠な勢いは失われます。そして、ゲオルギー・ジューコフ率いるソ連軍の反攻は、電撃戦の原理を縦深作戦として応用する形で展開されていったのです。

結果と影響

この軍事戦略の発展により、ドイツは広範な領土を短期間で掌握することに成功しました。しかし、各地でのレジスタンス運動の台頭と、1942年以降の東部戦線における連敗により、ドイツ軍の快進撃はついに終わりを迎えることとなります。