古代の歴史

カール大帝、フランク王国の単独王となる

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背景――カロリング朝の誕生

数々の混乱の時期を経て、751年にフランク王となった小ピピン(ピピン3世)は、カロリング朝初代の王である。彼はセプティマニア(南フランス)からバイエルン(南東ドイツ)に至る広範な領域における王国の統一を回復することに成功した。さらに王権による通貨を発行し、「信仰の擁護者」として教皇を保護する立場を確立した。

大貴族の娘であったベルトラーダ・ド・ラオン――通称「大足のベルト」――との結婚により、彼はシャルル(後のカール大帝)とカルロマンという二人の息子をもうけた。754年7月28日、この二人の息子は教皇ステファヌス2世によって戴冠されている。

主な登場人物

小ピピン(ピピン3世)/ ベルトラーダ・ド・ラオン(大足のベルト)/ カール大帝(シャルル)/ カルロマン / 教皇ステファヌス2世

経緯

768年9月24日に死去する直前、小ピピンは王国を二つに分割した。長男シャルルにはネウストリア(現在のフランス北西部)、アウストラシア(同北東部)、そしてピレネー山脈に至るアキテーヌの一部を与えた。一方、弟カルロマンにはブルグント、プロヴァンス、セプティマニア、シュヴァーベン(南ドイツ)が相続された。こうして弟の領土が一塊のまとまりを持つのに対し、兄シャルルの領土は弟の領域を囲む円弧状に広がる形となった。

768年10月9日、兄弟はそれぞれの王国の拠点で王として戴冠された。シャルルはノワイヨンで、カルロマンはソワソンでのことである。

まもなくアキテーヌで反乱が勃発すると、シャルルは弟に援軍を求めたが拒絶された。幼い頃から二人の仲は決して良好とは言えなかったのである。そこで兄は単独で、フナウト公率いる反乱に対抗すべく出陣し、その途上でガスコーニュも併合した。こうして小ピピンの長男は769年、単独でアキテーヌ征服を完成させた。

兄弟の不和を憂慮した母ベルトラーダは、カールの結婚を取り仕切った。相手は弟カルロマンの妻ゲルベルガの姉妹デジデリアで、二人ともラングバルド王デシデリウスの娘であった。カールはなかなか承諾しなかったが、王国への影響を悟って従った。ところが1年も経たないうちに彼女を離縁してしまう。兄弟間の骨肉の争いが危惧されたが、運命は別の道を選んだ……。

771年、カルロマンの早世がシャルルの運命を大きく変えた。彼は直ちに弟の領土を併合し、甥たちから相続権を奪い取ったのである。義姉ゲルベルガは子供たちを連れ、父であるラングバルド王デシデリウスのもとへ亡命した。かくしてカールは771年12月4日、ラオン近郊のコルベニーにおいて、フランク人の唯一の王として認められた。

結果

甥たちを差し置いてカルロマンの領土を奪ったことが、773年のラングバルド戦争につながった。教皇庁の存亡もまた争点となっていた。ラングバルド王デシデリウスが教皇領を併合し、新教皇ハドリアヌス1世に甥たちをフランク王として戴冠させるよう迫っていたからである。

カールは遠征に出発し、ゲルベルガとその子供たちを捕虜とすると、774年にはデシデリウスが立てこもるパヴィアの長期包囲戦を展開した。勝利の後、カールは「フランク人とラングバルド人の王」と宣言され、解放したばかりの教皇庁との永続的な友好関係を固めた。

以後、カールは領土拡大の手を止めることなく、その版図はやがて帝国へと発展していった。そして800年、彼は皇帝として戴冠されるのである。