古代の歴史

ベルリンの壁の建設:冷戦が生んだ分断の象徴

背景:冷戦とドイツ分断

ベルリンの壁の建設は、第二次世界大戦の戦勝国である2つの超大国――アメリカ合衆国とソビエト連邦(USSR)――が対立した冷戦期に行われました。

第二次世界大戦の終結後、ドイツは連合国4か国によって分割占領されました。その後の冷戦をめぐる地政学的な再編の中で、西側陣営の「ドイツ連邦共和国(西ドイツ/FRG)」と、東側陣営の「ドイツ民主共和国(東ドイツ/GDR)」という2つの国家が誕生することになります。

経済的な理由から、あるいは共産主義体制からの逃亡を求めて、数百万人ものドイツ人が東ドイツから西ドイツへと移住しました。ベルリンの壁は、この大規模な人口流出を食い止めるために建設されたのです。

首都ベルリンもドイツ本国と同様に連合国による分割占領下に置かれ、東西両地域をつなぐ重要な通過点となっていました。

日時

1961年8月12日~13日

ベルリンの壁の建設:冷戦が生んだ分断の象徴

主な人物

  • ニキータ・フルシチョフ(ソ連首相)
  • ジョン・F・ケネディ(アメリカ合衆国大統領)
  • ヴィリー・ブラント(西ベルリン市長)

経緯

1961年8月12日夜から13日にかけて、労働者たちはソ連軍の保護のもと、西ベルリンを取り囲むように有刺鉄線を敷設しました。以降数日のうちに、東西間の通行路はソ連兵によって封鎖され、交通機関も遮断されます。8月14日にはブランデンブルク門が閉鎖され、西側諸国の国境検問所の前には軍隊が配備されました。

この有刺鉄線の障壁は、その後、コンクリート板で造られた本格的な壁へと置き換えられていきます。工事は数か月にわたって行われ、東ドイツ当局は建物の1階部分にある玄関や窓までも塞ぎました。広場や街区は恣意的に分断され、一つの都市が物理的に二つに引き裂かれたのです。

1961年10月25日には、「チェックポイント・チャーリー」においてアメリカ軍とソ連軍の戦車が対峙する事態が発生しました。発端は、東ドイツの国境警備隊が西側諸国の代表当局に対し身分証の提示を要求したことでした。この瞬間は、冷戦期における緊張の極致を示す場面として歴史に刻まれています。

こうして一夜にして、ベルリン市民は東西間の自由な移動を奪われました。東側に住む多くの市民は、西側にある職場へ通うことすらできなくなったのです。市内中心部を走るベルリンの壁は、全長43.1キロメートル、高さ3.5メートルに及びました。

影響と結果

  • ベルリンの壁は、冷戦を象徴する最も強力なシンボルの一つであり続けました。西側陣営と東側陣営のイデオロギー対立を、物理的に示す標識だったのです。
  • 1963年6月26日、アメリカのジョン・F・ケネディ大統領は西ベルリン市庁舎のバルコニーから演説を行い、西ベルリン市民へのアメリカの揺るぎない支援を表明しました。ドイツ語を交えたこの演説の一節は今も語り継がれています。「すべての自由な人間は、どこで生きようとも、ベルリン市民である。ゆえに自由人の一人として、私はこの言葉を誇りに思う――Ich bin ein Berliner(私はベルリン人だ)!」
  • 1961年から1989年の壁崩壊までの間に、約10万人の人々が東西ドイツ間の国境を越えて、東ドイツからの脱出を試みました。