宗教改革という危機
15世紀、聖職者たちの富の蓄積はしばしば腐敗した生活をもたらし、自らを改革できなかった教会の弱体化に拍車をかけました。なかでも免罪符の販売をめぐるスキャンダルは、1517年にルターによるプロテスタント宗教改革の発端となり、その動きはヨーロッパ中に急速に広がりました。1530年頃からはスペインとフランスが主導する宗教戦争が勃発し、教会内部に深刻な危機をもたらします。
この新たな脅威――過去の異端よりもはるかに切実な存在――に対して、教会は精神的権威を維持するため、教義と組織の両面で改革に取り組む必要がありました。こうして教会は結束を固め、約1世紀にわたる「反宗教改革」(対抗宗教改革、ルターの宗教改革に対抗する運動)の時代が幕を開けます。その中心となったのがトリエント公会議です。
16世紀

主要人物
- マルティン・ルター
- パウルス3世
- ピウス5世
経緯
ルターの宗教改革後、ヨーロッパでは新しい修道会が次々と誕生しました。なかでも1540年にイグナチオ・デ・ロヨラによって創設されたイエズス会は、反宗教改革の推進役として重要な役割を果たします。
パウルス3世(在位1534~1549年)はローマ教皇庁の改革に着手し、異端審問所を再編成するとともに「禁書目録」を作成。そしてついにトリエント公会議を召集しました。
この公会議は1545年から1563年までの18年間、数回の会期に分けて開催され、歴代の教皇のもとで進められました。公会議を通じて教会は自らの教義を確認・承認し、それらを信条(クレド)として統合しました。そこにはプロテスタントから批判されていた聖人崇拝や聖母マリアへの崇敬も含まれていましたが、何より重要だったのは、聖書解釈の権威を教会だけが独占すると定めた点です。これはルターによる最大の批判への直接の回答でした。
さらに公会議は教会組織の再編も行いました。濫用を防ぐため、聖職者と司教団をローマ教皇庁のより厳格な管理下に置いたのです。また、当時の司祭には無学な者が多かったことから、彼らのための神学校(セミナリー)による宗教教育制度も整備されました。
この教会改革は、聖ピウス5世(在位1566~1572年)の時代に確固たるものとなります。彼はローマの腐敗に果敢に立ち向かい、成功を収めました。歴代の教皇たちも同じ路線を受け継ぎ、典礼の刷新、聖職者と司教団の強化、聖職者へのより高度な教育の保障を進めていきました。
16世紀最後の四半期には、イエズス会の活発な活動によって、教会はドイツと東欧で失った地欧で失った地盤の一部を取り戻すことに成功しました。
影響
- カトリック教会とカトリック諸国は中央ヨーロッパで勢力を回復しましたが、北欧との亀裂は決定的なものとなりました。
- 宗教的対立をめぐる政治的紛争の固定化により、ヨーロッパ各国の同盟関係は再編成されました。