1942年11月17日から1943年5月13日まで続いたチュニジア戦役の末、連合軍は北アフリカから枢軸国軍を駆逐し、1943年5月13日、チュニスで枢軸軍の降伏文書調印を実現した。そしてまさに同じ日、シチリア島上陸作戦「ハスキー作戦」が正式に決定された。予想外の周辺地域から攻撃を仕掛けることを重視するウィンストン・チャーチルの主張が通じ、アイゼンハワー指揮下の連合軍はシチリア島への上陸へと舵を切ることになったのである。
欺瞞作戦「ミンシミート」
1942年のディエップ上陸作戦がドイツ軍に察知され、連合軍が壊滅的な被害を受けた二度と繰り返せない失敗の教訓を踏まえ、連合軍は巧みな欺瞞工作を企てた。1943年4月30日、スペイン・ウェルバ沖のドイツ軍情報部員が監視する海域へ、イギリス海兵隊士官の姿をした遺体が流着したのである。遺体の手首には、イギリス海軍中将ルイス・マウントバッテン卿の署名入りとされる「極秘」書類が入った鞄がぶら下げられており、次の上陸目標がサルデーニャ島であるかのように偽装されていた。この「ミンシミート作戦」は大成功を収め、ドイツ軍は見事に餌食となった。
こうして実行に移されたのが、1943年7月9日から8月17日にかけてのシチリア島上陸作戦である。
主要人物
- ウィンストン・チャーチル(イギリス首相)
- ハロルド・アレグザンダー(連合軍地上部隊司令官)
- ドワイト・D・アイゼンハワー(連合軍最高司令官)
- アルフレード・グッツォーニ(イタリア第6軍司令官)
- アドルフ・ヒトラー(ドイツ総統)
- ハンス・フーベ(ドイツ軍司令官)
- バーナード・モントゴメリー(イギリス第8軍司令官)
- ルイス・マウントバッテン卿(イギリス海軍中将)
- ベニート・ムッソリーニ(イタリアの「イル・ドゥーチェ」)
- ジョージ・パットン(アメリカ第7軍司令官)
- ガイ・サイモンズ(カナダ軍少将)
作戦の経過
1943年7月9日、連合軍はシチリア島に激しい爆撃を浴びせ、同日夜から10日未明にかけて島内の戦略的要衝への水陸両用上陸を実施した。強いうねりと起伏に富んだ地形のため接岸は困難を極めたが、パットン将軍率いるアメリカ第7軍は南西海岸、特にジェーラに上陸し、同時にイギリスのモントゴメリー将軍指揮下の第8軍もパキーノ半島および南東海岸の一部に到達した。さらにクラーア将軍とサイモンズ少将が率いるカナダ軍部隊も参戦し、連合軍の投入兵力は約16万人に達した。
水陸両用車DUKW(通称「ダック」)は水上からそのまま陸上へ走行できるため、ビーチで兵員や装備を降ろして即座に内陸へ進むことが可能だった。強風が生んだうねりにもかかわらず海上からの上陸は辛うじて成功したものの、空挺作戦の方ははるかに危険で、多くの落下傘兵が散開の末に命を落とした。
アメリカ軍は、精鋭ドイツ装甲師団「ヘルマン・ゲーリング」とイタリアのリヴォルノ師団による予想外の頑強な抵抗に直面した。一方イギリス軍は、グッツォーニ将軍率いるイタリア「ナポリ」師団と対峙しながらも、10日夜から11日未明にかけて早くもシラクーサを攻略した。包囲されることを恐れたフーベ将軍率いるドイツ軍は、撤退を組織するためエンナ周辺へ再集結し、モントゴメリーはカナダ軍に対し、レオンフォルテでその退路を封鎖するよう命じた。
パットンとその部隊は多くのドイツ軍を引き離してパレルモへ向かい、7月22日に同市を占領した。その間、イギリス軍はシュマルツ支隊のドイツ兵によりカターニア平原で足止めされていた。最終的にアメリカ軍は内陸ルートから、イギリス軍は海岸沿いから、合流地点であるメッシーナを目指して進軍した。同市は8月17日に陥落したが、すでに大多数のドイツ軍はイタリア半島への脱出を終えていた。
作戦の帰結
1943年7月24日、シチリア島の完全制圧を待つことなく、ファシズム大評議会はイタリア王国に君臨してきたベニート・ムッソリーニ(通称「イル・ドゥーチェ」)を解任した。わずか6週間後、イタリアは降伏する。ヒトラーは同年9月12日にムッソリーニを救出したものの、ヨーロッパ大陸における連合ーロッパ大陸における連合軍の紛れもない勝利でありながら今日しばしば忘れられがちなシチリア島上陸作戦は、第二次世界大戦全体の重大な転換点を画する出来事となったのである。