湾岸戦争の背景
サッダーム・フセイン率いるイラクは、1980年から1988年まで続いた8年間のイラン・イラク戦争により、国家財政が深刻に疲弊していた。そんな中、戦争終結後に小さな首長国クウェートがOPEC諸国との協議なく石油生産を20%も増産したため、原油価格は下落。経済的に苦しい状況にあったイラクは、この競争によって石油収入の3分の2を失うこととなった。
イラクの損失を補償することをクウェート首長が拒否したことで、両国間の緊張は一気に高まった。1990年夏、サッダーム・フセインは駐イラク米国大使エイプリル・グラスピーと会談し、「クウェートは本来イラクに属すべきものだ」と主張してクウェート侵攻の計画を明かした。サッダームは、アメリカが紛争に介入する意思がないと判断し、自由に手を伸ばせるものと確信。クウェート国境付近へ大規模な部隊を集結させたのである。
一方、この紛争はアメリカにとって重大な戦略的関心事だった。クウェートには世界の石油埋蔵量の約9%が存在するうえ、同地域への軍事基地設置は、アラブ産油国への支配力と影響力を強める絶好の機会となるからだ。ジョージ・H・W・ブッシュ大統領は、これをペルシャ湾岸に足場を築く好機と捉えたのである。
期間:1990年8月2日〜1991年2月28日

主要人物
- ジョージ・H・W・ブッシュ(アメリカ合衆国大統領)
- サッダーム・フセイン(イラク大統領)
開戦までの経過
1990年7月の外交交渉が決裂すると、イラクは同年8月2日、ほとんど抵抗を受けることなくクウェートへ侵攻した。
国際社会は、この侵攻が石油市場を大きく不安定化させることを懸念し、即座に強い反応を示した。
サッダーム・フセインが次はサウジアラビアへの侵攻も狙っていると確信したアメリカは、イラクに民主的な政権を樹立するという目的を掲げ、急速に国際的な多国籍軍を結成していった。
1990年8月6日、「砂漠の盾」作戦が発動される。9月から11月にかけて、英語圏諸国・ヨーロッパ諸国・アラブ諸国など30か国以上が約60万人の兵力をイラク国境に集結させた。対するイラク軍は50万人を擁しながらも装備が劣り、ノーマン・シュワルツコフとコリン・パウエルらアメリカ軍指導部の前に立ち塞がることになった。西側諸国では、戦争支持を煽るプロパガンダも盛んに展開された。
そして1991年1月17日、「砂漠の嵐」作戦が開始。多国籍軍の航空部隊がイラク本土とイラク軍への攻撃を開始したのである。わずか43日間で8万8000トンもの爆弾が投下され、民間人を含む甚大な付随的被害(コロラタル・ダメージ)が発生した。
2月23日、多国籍軍は抵抗を受けることなくイラク国内へ進軍。
2月26日、イラク軍はクウェートからの撤退を開始した。
しかし2月28日、ブッシュ大統領は、多国籍軍が反乱を促してきたシーア派がイラクの政権を掌握することを恐れ、突如として進軍停止を命じた。この決定は国際世論に大きな衝撃を与えた。サッダーム・フセインは退位も逮捕も免れ、さらには多国籍軍が自ら仕掛けた反乱を鎮圧することまで黙認されたのである。
湾岸戦争の結果と影響
- サッダーム・フセインは、イラク国内のクルド人およびシーア派住民の虐殺を開始した。
- イラクは経済制裁(禁輸措置)に加えて日常的な空爆にさらされ続け、国力の弱体化は湾岸のアラブ諸国にとってむしろ好都合となった。
- 湾岸地域には大規模な米英軍事基地が恒久的に設置された。
- サッダーム・フセインは次第にイスラム主義勢力へと接近し、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロに至るまで、中東地域の緊張は高まり続けた。