ナポレオン戦争の背景
1789年に始まったフランス革命は、啓蒙思想の広がりを恐れるヨーロッパ各国の君主たちに大きな危機感を抱かせました。革命の理念が自国へ波及することを防ぎたい各国は、連合してフランスと対決する道を選びます。最初の対仏大同盟は1793年から1797年まで続き、続いて1799年にはイギリス、両シチリア王国、トルコ(オスマン帝国)、ロシア、オーストリアによる第二次対仏大同盟が結成されました。
そして1799年11月9日(ブリュメール18日のクーデター)、ナポレオン・ボナパルトが権力を掌握し、ここにフランス革命は事実上の終焉を迎えます。
期間:1799年〜1815年

主要人物
- ナポレオン1世(フランス皇帝)
- ウィリアム・ピット(イギリス首相)
- フランツ2世(神聖ローマ皇帝、のちのオーストリア皇帝フランツ1世)
- アレクサンドル1世(ロシア皇帝)
戦争の経過
- 1802年3月25日:ナポレオンは、チューリッヒ(スイス、1799年)、マレンゴ(イタリア、1800年6月14日)、ホーエンリンデン(バイエルン、1800年12月3日)での勝利によって第二次対仏大同盟を終結させました。
- オーストリアは1801年のリュネヴィル条約で最初に講和し、その他の諸国も1802年3月25日のアミアンの和約に調印しました。
- 1804年:イギリス首相ウィリアム・ピットがフランスに宣戦布告し、アミアンの和約は破棄されました。
- 1805年:第三次対仏大同盟(イギリス、ロシア、スウェーデン、オーストリア)が結成。しかしナポレオンはウルム(1805年10月20日)およびアウステルリッツ(オーストリア帝国、1805年12月2日)での勝利によりこれを打ち破り、12月26日にプレスブルクの和約が締結されました。
- 1806年:第四次対仏大同盟(イギリス、ロシア、プロイセン)が成立。ナポレオンはイェーナとアウエルシュテット(プロイセン、1806年10月14日)、アイラウ(ロシア、1807年2月8日)、フリートラント(同じくロシア、1807年6月14日)で相次いで勝利を収め、イギリスを除く形で1807年7月7日〜9日にティルジットの和約が結ばれました。
- 1809年:第五次対仏大同盟(イギリス、オーストリア)が結成されるも、ナポレオンはヴァグラムの戦い(オーストリア、1809年7月5日〜6日)で敵を撃破。10月14日にウィーンの和約が調印されました。
戦争の結果
- 1813年:第六次対仏大同盟(イギリス、ロシア、プロイセン、オーストリア、スウェーデン)が結成され、ナポレオンはライプツィヒの戦い(プロイセン、10月16日〜19日)で敗北します。
- 1814年4月6日:ナポレオンは退位を余儀なくされ、イタリアのエルバ島へ追放されました。フランスの国境は1792年当時の状態へと戻されます。
- 1815年3月:ナポレオンが権力への復帰を果たすと、第七次対仏大同盟(イギリス、プロイセン、ロシア、オーストリア、オランダ、スウェーデン)が結成されました。
- 1815年6月18日:ナポレオンはワーテルローの戦いに敗れました。
- 1815年6月22日:ふたたび退位したナポレオンは、大西洋上のセントヘレナ島に幽閉され、その生涯に幕を下ろします。