古代の歴史

コンスタンティノープルの略奪――第四回十字軍はなぜキリスト教都市を襲ったのか

第四回十字軍の背景

1198年8月、教皇インノケンティウス3世は選出からわずか数ヶ月後、サラディン(サラーフッディーン)によって再征服された聖地を解放するための十字軍を呼びかけました。当初の計画では、まずエジプトの主要港を攻略し、それを交渉材料としてエルサレムと交換するというものでした。

ところが当時、フランス王とイングランド王は互いに戦争状態にあり、神聖ローマ皇帝もローマ教皇庁の権威に真っ向から対立していました。一部の諸侯は素早く応じたものの、ヨーロッパの大国王たちは参加を見合わせ、第四回十字軍は予定していた3万人に対し、わずか1万人ほどの騎士しか集められなかったのです。

十字軍はヴェネツィアへ進軍しましたが、地中海を渡るために必要な資金を工面できずに行き詰まります。そこでヴェネツィアのドージェ(総督)は、「ザダール(現クロアチア)の街を征服すれば、負債を帳消しにし、エジプトまでの輸送を認める」という取引を持ちかけました。

こうして1202年、ザダールは陥落します。しかし最大の問題は、この街がキリスト教都市であったことでした。これに憤慨した教皇は、主にヴェネツィア人を中心とする多くの十字軍参加者を破門したのです。

開戦の日付

1204年4月12日

主な登場人物

  • インノケンティウス3世(ローマ教皇)
  • サラディン(アイユーブ朝のスルタン)
  • ボードゥアン6世(エノー伯。のちラテン帝国の皇帝ボードゥアン1世となる)

経過

まさにこの時期、神聖ローマ皇帝が十字軍に助けを求めてきました。義弟にあたるアレクシオス・アンゲロスを、ビザンツ帝国の豊かな首都コンスタンティノープルの帝位に復位させたいというのです。見返りとして、十字軍に必要な財政的・軍事的支援が約束されました。こうして1203年、コンスタンティノープルは初めて占領され、十字軍は本来の目的から完全に逸脱することになります。破門を逃れるため、すでに多くの兵士が隊列を離れていました。

占領期間を経て、ヴェネツィアのドージェは自らの血縁者であるアレクシオスを権力の座に留めようと図りましたが、十字軍の強欲さに疲弊した市民の反乱を招いてしまいます。これに対し十字軍は、1204年4月9日、二度目の包囲戦を仕掛けました。

ビザンツ軍は予想以上に抵抗し、天候も十字軍に不利に働きました。その一方で、聖職者たちは教皇がこの包囲を非難していた事実を兵士たちから隠そうとしていました。それでも攻勢は迅速かつ激烈に進み、わずか3日間に及ぶ極めて残虐な略奪へと発展します。この間、計り知れない価値を持つ財宝が奪われるか、あるいは破壊されました。十字軍は完全に乗っ取られ、強欲さが勝利を収めた瞬間でした。

影響

  • コンスタンティノープル陥落により、1261年まで存続する「ラテン帝国」が成立しました。十字軍はエノー伯ボードゥアンを皇帝に戴き、多くの都市はヴェネツィアに割譲されました。
  • ビザンツ帝国はこの征服によって解体され、コンスタンティノープルは次第にその威光を失っていきました。
  • 教会と教皇自身も、自らの十字軍を統御できなかったことで弱体化を余儀なくされました。カトリック教徒が富のために虐殺を行ったこの時期をもって、東方教会と西方教会の分裂(大シスマ)は決定的なものとなったのです。