1961年4月21日の夜、フランス領アルジェリアの首都アルジェで、フランス軍の現役・退役将軍たちが武装蜂起し、ド・ゴール政権の転覆を図りました。この事件は「アルジェのクーデター(プチ・デ・ジュネロ)、通称『将軍たちの反乱』」として知られています。ここでは、その背景から経過、そして結果までをわかりやすく解説します。
背景:アルジェリア戦争と独立運動
- 1954年にアルジェリア戦争が勃発しました。しかし、第二次世界大戦の終結以降世界的に進んでいた脱植民地化の流れに対し、戦争が激化するなかで歴代政府は有効な対応策を見いだせないまま状況を迎えていました。
- 軍事的にはフランスに有利な局面もありましたが、政治的な決着の道は次第に狭まっていきました。アルジェリア側は独立に向けて活発な運動を展開し、フランス本国でも独立容認の世論が広がっていました。その表れとして、独立支持のデモ行進、偽造書類でアルジェリア民族解放戦線(FLN)を支援する「スーツケース運び(ポルトゥーズ・ド・ヴァリーズ)」、さらにはサルトルら知識人が名を連ねた「121人の宣言」などが挙げられます。
- 1958年、ド・ゴールが政権に復帰し、ある程度の自治をアルジェリアに認める方針を示しましたが、独立そのものは承認しませんでした。しかし、その後の政策の推移は「仏領アルジェリア」維持を掲げる勢力の強い不満を招くことになります。1960年11月には、ド・ゴール自身が「アルジェリア共和国」という言葉に言及するにまで至ったのです。
主要人物
- シャルル・ド・ゴール(当時のフランス大統領)
- モーリス・シャル(クーデターの中心人物)
- エドモン・ジュオー
- アンドレ・ゼレール
- ラウル・サラン
クーデターの経過
ド・ゴールの姿勢に危機感を募らせていた「仏領アルジェリア」支持者たちは、FLNとの交渉開始が現実味を帯びるにつれ、1960年末からアルジェにおけるクーデターの準備を進めていました。1961年4月11日、ド・ゴールはついに交渉方針を正式に了承します。ド・ゴールは、本国にとっての財政負担があまりに重いことなどを理由に、アルジェリアの非植民地化を正当化したのです。
作戦の指導には、シャル、ヴァリュ、ゼレール、ジュオーの各将軍らによる執行部(合議体)があたりました。4月21日の夜、外人部隊第1落下傘連隊がアルジェ市内に進入し、市庁舎や参謀本部などの主要な行政施設を次々と制圧します。当初の計画では、パリやエリゼ宮殿にも落下傘部隊を投入する構想さえあったといいます。4月24日に撮影された、国民議会前に並ぶ戦車の写真は、国内外に大きな衝撃を与えました。
4月22日、アルジェのラジオ局は将軍たちによる権力掌握を放送します。シャルが運動の先頭に立ち、各地の部隊に呼応を呼びかけました。これに対し同日夜、ド・ゴールは平服ではなく軍服姿でテレビ演説を行い、「引退した将軍の一団(カルテット)」を痛烈に非難するとともに、彼らの指揮下にある兵士たちに対して不服従を呼びかけました。支援と呼応を得られなくなったクーデターは4月25日夜に崩壊し、シャルは降伏交渉に応じました。
結果と影響
- このクーデターの失敗により、ド・ゴールはFLNとの交渉を目前に控えた時期において、むしろ政治的地位を強化することになりました。
- 明確な政治的ビジョンを欠いていたことも、アルジェでのクーデター失敗の一因とされています。シャルとゼレールは禁錮刑に処されましたが、その後に成立した法律によって恩赦を受けました。一方、サランとジュオーの両将軍は地下に潜伏し、秘密軍事組織(OAS)の活動に身を投じていくことになります。