古代の歴史

1054年の大分裂――ローマとコンスタンティノープル、キリスト教東西分裂の真相

背景:二つの首都の対立

395年のローマ帝国分裂以降、ラテン伝統を受け継ぐ首都ローマと、ギリシャ伝統を担うコンスタンティノープルとの間で対立が深まっていきました。

教会創成期には、重要な決定は各地域の伝統に従って下されていました。しかし次第にローマは、全キリスト教圏に対する権威を主張するようになります。使徒ペトロによって建てられた都市であるローマこそ、他の諸教会に対して首位権を持つはずだという主張です。これに対し、「東方の教会」たるコンスタンティノープルは強く反発しました。

8世紀に入ると、名目上はビザンツ皇帝の保護下にあったローマは、イタリアにおけるランゴバルド人の侵入を撃退するためフランク王国の助力を求め、西方へと接近します。ここに東西の亀裂が顕在化し始めました。そして11世紀初頭、三位一体をめぐる神学的な断絶によって分裂は決定的となります。両教会の三位一体観は異なり、ローマは自らの解釈を受け入れさせることができなかったのです。

さらに世紀の変わり目頃からは、南イタリアでノルマン人の侵攻が勢いを増し、ローマをますます脅かすようになっていました。こうした情勢の中、1043年にビザンツ皇帝コンスタンティノス9世モノマコスによりミカエル1世ケルラリオスがコンスタンティノープル総主教に任命され、1049年にはグレゴリウス改革の推進者であるレオ9世がローマ教皇に選出されました。

1054年

1054年の大分裂――ローマとコンスタンティノープル、キリスト教東西分裂の真相

登場人物

  • レオ9世(ローマ教皇)
  • ミカエル1世ケルラリオス(コンスタンティノープル総主教)

経緯

レオ9世は東方へのラテン典礼の押し付けを図りますが、ギリシャ語圏であるコンスタンティノープルはこれを拒否し、ラテン典礼を行う教会を次々と閉鎖しました。両総主教間で交わされた誤訳だらけの書簡のやり取りが、ローマとコンスタンティノープルの緊張をさらに高めます。コンスタンティノープル側が典礼を批判したのに対し、ローマ側は自らの首位権を主張するばかりでした。

やがて教皇連合軍(教皇の権威の下に集結した軍)がノルマン人の侵攻に敗れると、皇帝は戦争支援と引き換えに両教会の和解を提案します。そこで典礼上の対立(礼拝形式をめぐる争い)を鎮めるため、教皇使節団がコンスタンティノープルへ派遣されました。しかし、ミカエル1世ケルラリオスとの議論は激化する一方だったのです。

教皇レオ9世が死去した直後、教皇使節団はミカエル1世ケルラリオスを破門します。これに対しケルラリオスは、民衆とビザンツ聖職者たちの支持を背景に、使節団への抗議行動を巻き起こし、彼らを糾弾しました。こうして東西両教会の分裂(シスマ)は決定的となったのです。

その後の影響

  • 両教会間の教義論争はエスカレートし、東西間の文化的隔たりは一層広がっていきました。
  • 両教会による相互承認の拒否は年々積み重ねられましたが、真の意味での決裂は1204年、第4回十字軍によるコンスタンティノープル略奪の時に訪れます。
  • 両教会は互いを「異端」として描き合い、民衆間の敵意を増大させました。世界は二つの対立する陣営に分かれ、同盟関係の構図も大きく塗り替えられたのです。