
「ギヨタン議員は医学の道に長けた才人なり/フランス人の体から/野望ある者どもを一掃せんがため/一台の機械を作りたり/それぞギロチン、おお、なんと!/それぞギロチン!」――1793年、革命が内戦へと転化するなか、当時の人々を魅了すると同時に恐怖させた装置を風刺する歌が謡われた。国民議会に提案されてから4年、この装置はもはや刑事司法の新たな道具以上の存在となっていた。
そもそもこの機械は、1789年12月1日、司法改革をめぐる議論の最中に、医師であり代議士でもあったジョゼフ・イニャス・ギヨタンが提出した法案によって推進されたものだ。なかでも第6条が大きな話題を呼んだ。それは「死刑を宣告された者すべてが、例外なく同一の方法で処刑される」ことを定め、その方法を「単純な機構の作用による斬首」とするものだった。
斬首は貴族の特権だった
それまでの死刑執行と比べれば、この改革の進歩性は明らかである。従来、斧や剣による斬首の特権を持っていたのは貴族だけだった。当時の観念によれば、首を斬られても家門の名誉は汚されないとされていたのだ。一方、民衆出身の犯罪者の大多数には、絞首刑や車輪刑といった不名誉な刑罰が科され、拷問の末にその遺体は長期間、街中に晒されて評判を汚された。
しかし、ギロチンがすべての人を死刑の前で対等に扱おうとしたのは、同時に殺害の人道化をも目指してのことだった。つまり、無用な苦しみの回避である。早くも1777年、ジャン=ポール・マラーは『刑法草案』の中で「拷問の道具は恐ろしくともよい。ただし死そのものは優しくあらしめよ」と書いていた。啓蒙思想に触発されたこの人道化の構想は、フランス革命家たちだけのものではなく、司法の穏健化という同じ目的のもと、複数の欧州諸国で古くから記述され使用されてきた装置にヒントを得ている。
死体で行われた試験
にもかかわらず、代議士たちはその採用を前に大きく躊躇した。ギヨタン法案の最初の5条は比較的早く可決されたものの、死刑の執行方法をめぐる審議は持ち越された。たちまち政治的議論は空想にまみれることになる。即座に、機械的に、そして平等に処刑するという発想に衝撃を受けた一部の新聞は、ギヨタンを嘲笑し、作り話のような馬鹿げた発言を捏造して帰した。「私の機械を使えば、瞬きする間に首を吹き飛ばしてやる。しかも痛みは少しも感じさせずにな」
問題が議会に再び上程されたのは、はるか後の1792年春、実利的な理由によるものだった。1791年6月3日成立の法律により、死刑執行人の手よりも効果的で迅速かつ正確な新手段が必要となったのだ。意見を求められた外科アカデミーの常任書記ルイ医師は明言した――この目的を達成できるのは機械だけだと。急遽、そして熱意なく、2年前には嘲笑の的だった装置の試作品製作が命じられた。製作を担ったのは、ハープシコード職人のジャン=トビー・シュミットである。
1792年、ギロチンの原型の製作を委託されたのは、なんとハープシコード職人だった。
4月17日、パリ近郊のビセートル病院の中庭で、この機械は生きた羊および人間の死体を用いて試験された。立ち会ったのは厳選された面々――医師、代議士、施療院評議会のメンバー、そして当然ながら処刑人サンソンもその一人だった。全員の見解では、試験は成功裏に終わった。「シュミット氏の機械による実験は火曜日、ビセートルにて3つの死体に対して行われた。その切断はあまりにも鮮やかで、その力と速さに誰もが驚嘆した」。フランスにおけるこの機械の真の改良者であったルイ医師だったが、ほどなく自らの名を残すことになったギヨタンに影を潜めることとなる。
厄介な効率性
試験から1週間後、ギロチンはパリで実戦投入される。強盗・暴行の罪で死刑を宣告されたニコラ・ジャック・ペルティエが、この装置のお披露目の犠牲者となった。グレーヴ広場で催された処刑は大反響を呼んだが、処刑見物に慣れ切っていた観衆ですら、その日の信じられない速さに物足りなさを感じ、ショックを受けた。瞬く間に刃はペルティエの首を断ち、頭部は血飛沫を散らしながら籠の中へ落ちた。技術的には完璧な成功を収めたこの処刑は、それでも見る者に不安を抱かせる出来事となった。迅速で、冷たく、静かで、ほとんど目に見えない金属の刃の一閃は、処刑人の長い儀式がその重大さや神聖さを際立たせていたかつての公開処刑を、より散文的で日常的、そして究極的にはさらに恐ろしいものへと変えてしまったのである。
関連記事:ラ・マルセイエーズ――革命の音楽的魂
1793年春、新聞『パリの諸革命』の編集長プルードムは、進歩の道具としてこの機械を推進してきた人々の間に漂う違和感を表現した。秩序維持と正義の保障との最良の妥協点として、「人類に負うところと法が要求するところとを、これほどよく両立させる死の器具は想像できない」。それでも、プルードムが記す通り、ギロチンのイメージはさらに暗い色合いを帯びていった。その2か月前、この機械は国王の首を斬るために使われたのである。例外的司法の確立とともに、断頭台はフランス各地に増殖していった。
恐怖政治の象徴
サンキュロットたちには勇壮な誇りをもって迎えられたこの「首刈り機」は、反革命派の間では、革命の怪物性への憎悪の象徴となった。恐怖政治を彩る一連の処刑の機械的な恐怖こそ、人間が自然を超えてしまったことの証拠ではないのか。百科全書派や哲学者たちが「新人間」の名のもとに推進した発明や機械が、実は人類を自壊へ引きずり込んでいることを示しているのではないか。小説、歌、版画の中で、ギロチンは世界の秩序を覆そうとしながら、生と死を支配できると厚顔にも信じた革命家たちのプロメテウス的な狂気を象徴することとなった。
概してより慎重だった革命家たちの大多数もまた、革命への武器として意図的に用いられたこの暴走した想像力が、彼ら自身の矛盾を突いていることを知っていた。プルードムは自覚していた。「この刑罰への批判はこうだ。被処刑者の苦痛は免れるものの、観客から血の光景を十分に隠せない。刃縁から流れ出す血が断頭台の石畳に大量に降り注ぐ。この不快な光景を民衆の目に晒してはならない。法の名において犯された殺人という観念に、計画的な残虐性につながる冷酷さで慣れさせてしまうからだ」。これは長い議論の始まりにすぎなかった。20世紀の終わりまで使われ続けたギロチンは、今日に至るまで、フランス革命に関する最も根強いイメージの一つであり続けている。
さらに読む
『ギロチンとテロールの想像力』ダニエル・アラス、シャン叢書、フラマリオン、2010年
ギヨタン以前のギロチン
1789年以前、剣や斧による処刑の「失敗」を補うため、欧州ではさまざまな器具が用いられていた。早くも1765年、ラ・ポルト修道院長はスコットランドで使われていた機械についてこう記述している。「用いられる器具は幅1フィートの四角い鉄片で、極めて鋭利な刃を持つ。[...]合図が与えられるや、執行人はその鉄片を自由に落とすのである」
シンプルかつ効果的な機構
1792年3月7日にルイ医師が国民議会へ提出した報告書を受けて、数名の職人がそれぞれ異なる斬頭機の案を提示した。形状は数週間後に確定した。赤く塗装されるか赤木で造られることもあり、高さ約4メートルのこの器具は、安価でシンプルかつ効果的な機構を備え、標準化された量産が可能だった。