古代の歴史

「サプライズ集会」――ベルリン封鎖下、ロイターが率いた市民の抵抗

「サプライズ集会」――ベルリン封鎖下、ロイターが率いた市民の抵抗

空輸作戦の成功と封鎖の終結

この時期、条件がいかに不利でも空輸は十分に機能しうることが確認された。燃料、食料、医薬品を航空機でベルリンへ運び、西側地区の住民を生かし続けるのに足る量を供給することができたのである。やがて封鎖の第三段階に入ると、双方ともに打開不能な状況にあることを認めるようになった。西側諸国が無期限の空輸によって西ベルリンの存続を保証できるとは期待できず(そう公言してはいたものの)、他方ソ連も政治的な勝利を収めてはいなかった。大局的な利益のためには合意が不可欠だった。こうして1949年2月から秘密裏に交渉が始まり、5月には封鎖が解除された。

封鎖はどのように始まったのか

以上が封鎖の全体像である。では、その詳細はどのようなものだったのだろうか。最初の本格的な交通遮断は1948年4月に起こったが、数週間は一部の連絡路が辛うじて維持された。ソ連側は列車を通すこともあれば、止めることもあった。緊張が和らぎ、合意に達しそうに見える瞬間さえあった。西側は物資を空路で搬入してはいたが、大規模な空輸を組織するという発想はまだなかった。当時、双方とも決着をつけようとしていたとしても、そこに本気は感じられなかった。しかし誰も譲歩する気配もなかった。少なくとも、西ベルリンへの新ドイツ通貨導入問題が未解決であった以上は。

ところが6月、西側からベルリンへの陸上交通の要であったエルベ川上の自動車橋が補修工事に入ると発表された。ここから一連の技術的な小競り合いが始まり、たちまちベルリンは包囲状態に置かれることになった。同時に市政府への圧力も強まっていく。西ベルリンは、戦時中のドイツのように、二正面作戦を強いられたのである。

二つの戦い

第一の戦いは市民の生存をめぐるものであり、勝利は西側の決意と、アメリカ空軍およびイギリス空軍(RAF)の技術力によってもたらされた。しかし第二の戦いは、都市がソ連の支配下に落ちるのを防ぐためのものであり、こちらの勝敗は市民自身の手にかかっていた。ソビエト当局は繰り返し、西側との武力衝突を起こす意思がないことを示してはいたが、それでもクーデター(プッチ)を試みる用意があるように見えたからである。

副市長への執拗な圧力

危険をいっそう高めていたのは、ベルリンの第三副市長が社会主義統一党(SED)の党員であり、赤軍と警察が結託して、彼の二人の上司である正副市長の健康と士気を蝕み、辞任に追い込もうとしていたことだ。二人は夜ごとの尋問、中傷キャンペーン、執務室に常駐するソ連連絡将校の監視にさらされた。ベルリンは第二副市長フェルディナント・フリーデンスブルクに多くを負っている。健康を害した第一副市長が職を去らざるを得なくなった後も、彼は数か月にわたりこの圧力に耐え抜いたのである。

エルンスト・ロイターと「サプライズ集会」

一方、西ベルリンの真の指導者であったエルンスト・ロイターは、前年に市長へ選出されながらもソ連軍司令官に承認されていなかった人物である。彼は社会民主党員を動員して起こりうるクーデターに備えるとともに、時には街頭での「サプライズ集会」を命じた。合図ひとつで、何千、何万というベルリン市民が駆けつけたのである。ロイターはまた、党組織があらゆる事態に対応できるよう準備を整えた。この悲劇的な時期、彼は抵抗の精神を高揚させることで、市民の間で極めて重要な役割を果たした。

秋、二つの戦いの勝利と都市の分断

秋になると、両方の戦いで勝利が明確になった。空輸は十分な物資をもたらすようになり、クーデターの危険も去った。しかしロイターもフリーデンスブルクも、都市が東西に分断されることまでは防げなかった。1948年11月以降、ソ連と共産主義者たちは敗北を認めたかのように見えた。だが西側大国との交渉への意向を示しながらも、彼らは意図的に都市を二分していった。第一に、中央政府が置かれていた東部セクターから行政部門を次々と追放し、第二に、東ベルリンに新政府を樹立したのである。やがてフリーデンスブルクは、微笑むソ連将校によって市長執務室への入室を拒まれた。こうして本当に二つのベルリンが存在することになった。一方は東ドイツの首都と宣言され、もう一方は西側軍政の権威の下にある占領地域のままながら、実態としては西ドイツの一つの州のような様相を呈していた。

冬を越す空輸とその記録

封鎖は冬を越して続き、交渉は当初から困難が予想された。当時、ソビエト当局は封鎖を利用して西ドイツ建国を遅らせようとしていたからである。「空輸」の最多記録日には、約1,400機の航空機が西ベルリンに着陸した。厳冬期でさえ、航空機は従来鉄道で運ばれていた量を上回る石炭を運び込んだ。1日平均の搬入量には5,000トンの石炭が含まれていた。全体では200万~300万トンが空路でベルリンに届けられている。その3分の2をアメリカ空軍が、残りをイギリス空軍が輸送した。この空輸作戦では、アメリカ人・イギリス人のパイロットおよびドイツ人の地上作業員、合わせて69名が命を落とした。