
1. 第一級の作家であるから
「真の天才にして第一級の散文作家」――サルトルは『文学とは何か』の中でミシュレについてそう評しました。歴史家を作家の列に加えるべきだと考えていたのは、哲学者だけではありません。ミシュレに一冊の本を捧げたロラン・バルトもまた、彼を19世紀フランス文学最大の作家たちの一人に数えています。最高峰の作品だけを収めるプレイヤード叢書もミシュレを採録しており、そこではジョルジュ・デュビーと並ぶ「近代」の歴史家として登場しています(ヘロドトス、トゥキュディデス、タキトゥスといった「古代の歴史家」が同じ栄誉に与かるのみです)。
ミシュレ自身、歴史は単なる学究の作業にとどまるべきではなく、過去を生き生きと蘇らせなければならないと確信していました。だからこそ彼は叙述に息吹を吹き込み、壮大な絵巻を描き、同時代人のフローベールが得意とした自由間接話法を用いるなどして、過去の人々の内面に迫ろうとしたのです。歴史の記述に強い美的次元を与えることで、ミシュレは過去を新しい文学の主題へと押し上げました。歴史とは「復活」でなければならない――その言葉どおり、ミシュレの文体の力は、私たちを文字どおり死者との交わりへといざなってくれるのです。
2. 歴史を一次資料の研究の上に築いたから
「美しいページはあるが、歴史研究としては話にならない……」。数量史の泰斗であり、堅実な統計に基づく歴史学を提唱したピエール・ショニュは、ミシュレへの評価をこう率直に語りました。しかしこの軽蔑は、やや酷というものです。
確かにミシュレは、扱う史料を十分に批判的に吟味しないこともありました。ですが、少なくとも史料に依拠していたのです。国立古文書館古文書館歴史部門の責任者を務めた彼は文書と直接向き合い、歴史家の仕事が一次資料の研究なしには成立しえないと考えた最初期の人物でした。19世紀初頭までの歴史書は、過去の痕跡を直接調べることなく、既存の著作だけをもとに書かれていました。ミシュレの史料運用の甘さを批判するのは容易ですが、むしろ彼こそが、それまで極めて限定的だった歴史研究の方法論的水準を大きく引き上げたのです。
コレージュ・ド・フランスでミシュレを論じた講義を残したリュシアン・フェーブルは、フランソワ・ギゾーやオーギュスタン・ティエリーといった同時代の歴史家と比べたいかに革新的であったかを指摘しました。「今日の常識は、昨日や一昨日にはほとんど革命的な独創性だったことを忘れてはならない」。そしてこう結んでいます。「ミシュレは幾つもの戦いにあまりにも完全に勝利してしまったため、私たちはそれが勝たれるべき戦いだったことさえ忘れてしまったのだ」。
3. 女性・身体・環境の歴史を切り開いたから
もちろん歴史学は前進しました。知識は蓄積され、方法論は精緻化され、ミシュレが著書で唱えた数々の見解は時代遅れになっています。しかし彼の著作は、現代の歴史家たちが今なお着想を汲み取る「直感の宝庫」であり続けています。
ミシュレは、当時の過去研究がほぼ政治史一色だった中で、はるかに大胆な関心を持った歴史家でした。心性史の旗手となった中世史の大家ジャック・ル・ゴフは、ミシュレが中世西洋に与えた想像力の位置づけ、あの「夢の偉大な文明」の姿を高く評価しています。近年、女性史が確固たる地歩を築くにつれ、ミシュレがすでにこの領域に踏み込んでいたことが改めて注目されています。マドレーヌ・ルベリウーは、『魔女』を「女性の歴史が自立した最初の書物」と呼びました。
さらにミシュレは物質文明にも関心を寄せており、20世紀フランス史学の栄光となったフェーブルとブローデルのアナール学派の遠い先駆者と見なすことができます。各時代特有の病気への着目を通じて身体の歴史にも目を開いていました。そして今日、人間の世界の感覚的知覚を追究する感性の歴史や、固定したものではない環境と人間の関係を問う環境史が発展するなか、彼の著書『海』は先端研究の予感に満ちているのです。
4. ルネサンスという概念を「発明」したから
ミシュレにとって人類の歴史は、相次ぐ時代に区切られた長い上昇の物語でした。彼によれば、人類が成人期へ足を踏み入れるのは15世紀、中世を脱するころのことです。ヨーロッパ人がキリスト教徒であり続けたことは確かですが、教会への密接な依存から抜け出し、神の問題だけに縛られなくなりました。芸術、科学、思想において巨大な進歩が花開きます。この躍進は、ギリシャ語文献をはじめとする古代への回帰によって説明できる――古代に立ち返った以上、これは第二の誕生、すなわち「ルネサンス」だ、とミシュレは述べました。
この概念は広く受け入れられ、15世紀半ばから16世紀半ばまでの時代を指す語として、フランス語のみならず多くのヨーロッパ諸言語に定着しました。ルネサンスはイタリアで生まれ、イタリア戦争を通じてフランスへ伝わった――いまだ中世的だったフランスが、この戦乱のなかで文芸復興の故郷と出会ったのだと彼は語ります。そしてここで、ミシュレは最も美しい文章の一節を繰り広げます。「野蛮はある朝、無謀にもこの高度な文明にぶつかる。それは二つの世界の衝突であり、それ以上に、遥かに隔たっていた二つの時代の衝突である。衝撃と火花。そしてこの火花から、ルネサンスと呼ばれる火の柱が立ち上ったのだ」。
5. 民衆を歴史の主役に据えたから
偉人たちだけが脚光を浴びていた時代に、ミシュレは王や皇帝、教皇だけを歴史の主人公にしませんでした。彼とともに登場するのが、世界の変革の要だと彼が見なした新しい存在、すなわち民衆です。
ミシュレを包んでいた文化は、民衆の民俗に魅せられた芸術運動ロマン主義に支配されていました。彼の時代は国民感情の高揚にも特徴づけられ、ミシュレ自身、パリの労働者階級による幾度もの蜂起を目の当たりにしました。時代の子として、彼は1846年に一冊の著書を捧げた民衆に、それまでフランスの歴史叙事において否定され続けてきた役割を与えたのです。この民衆はときに、彼が最も美しい頁を捧げたジャンヌ・ダルクのような孤高の人物へと姿を変えます。熱烈な共和主義者であったミシュレは、フランス革命を、民衆が自己意識に目覚め新しい世界を生み出した瞬間と捉えました。だからこそ彼は、当初『基礎(ラ・フォンダシオン)』と題する予定だった『フランス革命史』を、自らの最も重要な著作と位置づけていたのです。