古代の歴史

極北の民イヌイット:過酷な環境で生き抜く知恵と文化

極北の民イヌイット:過酷な環境で生き抜く知恵と文化

1884年のリトグラフに描かれた、伝統的な装備を身につけたイヌイットの家族(ISTOCK)

16世紀以降、「エスキモー」という呼称は、北極圏および亜北極圏の広範な住民を指す言葉として使われてきました。この語の語源については「生肉を食べる人々」を意味するという説と、「雪靴を作る人々」を意味するという説がありますが、定かではありません。いずれにせよ、現在では差別的とみなされるようになったこの呼称に代わり、イヌクティトゥト語で「人々」「人間」を意味する「イヌイット」という名称が用いられるのが一般的になっています。

イグルーと獣皮のテント

最初の古エスキモー系民族は、アジアを離れてベーリング海峡を渡った後、およそ4500年前に北米の北極圏へたどり着いたと考えられています。その後、1000年前にはアラスカからグリーンランドまで分布していたチューレ文化と呼ばれる新エスキモー文化から、イヌイットが誕生しました。ただし、イヌイットはチューレ人のより発展した変種にすぎないとみなす専門家もいます。

イヌイットは21の部族に分かれ、ロシア(チュクチ半島)、アラスカ、カナダ、グリーンランドの北極地域に点在していました。彼らは共通した身体的特徴を持ち、よく似た口承伝統を実践し、同じエスキモー・アレウト語族に属する言語を話していました。冬季には気温がマイナス55度まで下がるという極限的な自然環境の中での生活ぶりでしたが、すべてのイヌイットが同じ生活様式を共有していたわけではない点に注意が必要です。

伝統的にイヌイットの住居といえば雪でできたイグルーが思い浮かべられますが、実際にこれを恒久的な住居として使用していたのは北極圏のイヌイットの約13%にとどまり、約20%が一時的な住居として利用した程度でした。つまり、3分の2のイヌイットはこの種の住居を建てなかったか、その存在自体を知らなかったのです。最も寒い時期における彼らの代表的な伝統的住居は、石と泥炭(ピート)で築かれ、鯨の骨、セイウチの牙、あるいは海岸に打ち上げられた流木で組んだ骨組みによって支えられた丸屋根を備えることもある構造のものでした。雪のイグルーと同様、これらの住居も高台の上に建てられ、冷気を遮断するための通路(トンネル状の入口)を通って出入りしました。夏には、北米インディアンのティピーに似た、カリブー(野生のトナカイ)の皮で作ったテントに住まいました。

夏はサケ漁と海獣狩り

彼らにとって春は一年で最も重要な季節でした。この時期、イヌイットは犬ぞりで移動し、氷結した海や流氷の上でアザラシ猟に励みました。彼らは動物が呼吸のために氷に開けた穴を利用したり、ポリニアと呼ばれる流氷に囲まれた水域で狩りを行ったりしました。ポリニアではセイウチや、運が良ければ特定の種類のクジラを仕留めることもできました。夏にはサケ、イトウ(アークティックチャー)、カペリンなどを漁漁獲し、鳥類の狩猟も行いました。

夏季には、カヤックや「ウミアック」と呼ばれる大型の獣皮船で海に出て、大型海洋哺乳類を追いました。女性たちは陸上でベリーや野生植物の採集、鳥の卵集め、そして海岸での貝類や海藻の採取に従事しました。秋はカリブー猟に最適な季節でしたが、食料の入手状況やカリブーへの依存度によっては、春や夏にも狩りを行うことがありました。

一年の大半、彼らは狩りと漁労の成果を消費しながら、厳しい北極の冬に備えて余剰分を蓄えました。冬の間、ほとんどの部族は活動を最小限に抑え、蓄えた食料で生き延びようとしたのです。しかし、1月や2月に備蓄が尽きた場合、共同体の存続を優先するため、集団の一員——特に女の子たち——を犠牲にせざるを得ないこともありました。年長者が自ら命を絶ったり、家族を見捨てたりすることもあったといいます。

「クレック」の灯りの下で

イヌイットの労働分担は性別によって明確に分かれていました。女性の仕事は主に皮のなめし、家族全員の衣服の製作、動物の解体、子育てでした。しかしその最大の責務は、ソープストーン(滑石)製の油ランプ「クレック(qulleq)」の火を絶やさぬことでした。動物の脂肪を燃料とし、海綿やワタスゲの芯を備えたこのランプは、皮の乾燥、調理、暖房、照明に使われました。クレックはイヌイット文化の礎ともいうべき存在であり、このランプなしに、彼らがあれほど過酷な気候と環境の中で生き延びることはできなかったでしょう。

一方、男性たちは狩猟と漁労に専念し、家族の生存に必要な食料の確保を担いました。また女性の協力を得ながら、冬の家、獣皮船、そりを作りました。弓錐(ボードリル)と呼ばれる道具を使って狩猟・漁労用具を製作しており、この道具は火起こしや材料への穴あけにも用いられました。

シャーマンの力

明日への不確実性、狩りの成否にまつわる不安、絶え間ない飢ない飢餓の脅威、そして地球上で最も過酷な気候の一つでの生存への挑戦——こうした状況は、イヌイットをして経済活動に関連する一連の信仰と儀礼を発達させることとなりました。彼らの共生戦略は、自然界と霊界との調和のとれた均衡を求めることへと向かっていったのです。

イヌイットは、あらゆる物体、自然現象、動物、人間、場所には「イヌア(inua)」と呼ばれる霊が宿ると信じていました。「主」「人」「魂」と訳されるこの概念こそ、彼らにとって動物界が崇敬と敬意の対象であった理由です。それは、彼らの活動の円滑な遂行に不可欠と考えられていた数多くの儀式や祝祭に最高のかたちで表現されていました。

シャーマン、すなわち「アンガクク(angakkuq)」だけがイヌアとつながることができる存在でした。特別な言語を通じて霊の助力を請える唯一の存在であり、狩猟民である彼らにとって極めて重要な祈願儀礼を執り行いました。歌、呪文、儀式によって天候と動物界を支配し、タブーの遵守と人間と自然の調和の維持にも責任を負っていました。これらの掟を破る者は、病気や不名誉といった罰を受けると信じられていたのです。

イヌイットはこのような生活様式を何世紀にもわたって守り続け、恐怖心を自らの文化に取り入れることで、極限の環境への適応を成し遂げてきました。しかし16世紀に「白人」が到来すると、この脆弱な均衡は崩れ始め、伝統文化と祖先の信仰は変容への道を歩むことになったのです。

ヨーロッパ由来の病気に蹂躙された民族

15世紀末、「白人」はヨーロッパとアジアを直接結ぶという幻の航路、北西航路を求めて極北を訪れ始めました。こうしてイヌイットと西洋の探検家・商人・宣教師との最初の接触が実現しましたが、それは決して友好的なものではありませんでした。1577年、エリザベス1世の命により、イギリスの探検家マーティン・フロビッシャーはバフィン島のイヌイット3人を連れ帰りましたが、彼らを故郷へ送り返すことは考えませんでした。3人はロンドン到着から1ヶ月後に全員死亡しています。イヌイットの人口が7万4000人から3万5000人に減少したのは、まさに初期の西洋人が持ち込んだ感染症によるものでした。イヌイットにはこれらの病気に対する免疫がなかったのです。

多用途に使われた女性のナイフ「ウルー」

「ウルー(ulu)」は女性の伝統的なナイフでした。扇型をしており、粘板岩、象牙、銅、さらには隕鉄で作られることもありました。柄にはカリブーの角、ジャコウウシの角、セイウチの牙、あるいは流木が使われました。肉を切ったり髪を整えたりするのに用いられ、女性の墓の副葬品としても一般的でした。

参考文献:
『The Inuit』 M. Therrien著、Les Belles Lettres刊、2012年