古代の歴史

「最後のサムライ」西郷隆盛――明治維新の英雄はなぜ最後の反乱に身を投じたのか

「最後のサムライ」西郷隆盛――明治維新の英雄はなぜ最後の反乱に身を投じたのか

エドアルド・キオッソーネによる西郷隆盛の肖像画(WIKIMEDIA COMMONS)

1854年2月、マシュー・ペリー提督率いるアメリカ艦隊が日本に来航し、約200年間続けてきた鎖国の終焉を求めた。黒船の蒸気と鋼鉄が放つメッセージは明確だった。外国勢力による支配を避けたければ、日本は港を開いて世界との交易に応じるだけでなく、経済や制度、さらには生活様式そのものを変革しなければならない、というのである。

1868年、明治時代の幕開けとともに急進的な近代化が進み、日本はわずか数年で西洋列強に肩を並べる国へと躍進した。しかしこの変革には強い抵抗もあった。とりわけ抵抗したのが、国の伝統的精神を体現する武士たちである。その一人、西郷隆盛は1877年に反乱を起こして敗れたが、その敗北こそが彼を不朽の伝説へと変えた。

質素ながら誇り高い家柄に生まれて

西郷隆盛は薩摩の出身で、質素でありながら血統を誇りとする下級武士の家に生まれた。役人としての第一歩は農村部で踏み出した。郡奉行・迫田次右衛門のもとで書記として勤め始め、その後徴税の任務で各地を巡るうちに、農民の置かれた厳しい状況を肌で知るようになった。体格がよく、寡黙で思慮深いこの青年は、上官から武士としての本分――治める民の幸福を守ること――を叩き込まれた。農民こそが国を守り、武士という身分を支える基盤であると悟った隆盛は、主君である島津斉彬に意見書を提出した。切実で熱のこもった文面で、武士は農民からの信頼を取り戻し、腐敗した慣行を一掃すべきだと訴えたのである。

殉死未遂――生き残った男の悲劇

島津斉彬の側近に抜擢された隆盛は、主君への絶対的な忠誠を誓った。ところが斉彬が予期せぬ死を迎えると、彼は主君の死に殉じて家臣が自ら命を絶つという古来の習わし「殉死」を選び、僧侶・月照とともに入水を図った。しかし波に打ち上げられて奇跡的に一命を取り留めた一方、同行した友人は亡くなってしまった。隆盛はこの悲劇を歌に詠んでいる。
「手を携えて海の底へ身を沈めしに、運命は我が望みを裏切り、生きておくことを許した。今日、歳月は流れ、私はあなたの墓前に立ち尽くし、空しい涙を流すばかり」

新しい藩主は、同輩からすでに大きな信望を集めるこの清廉潔白な武士を警戒した。隆盛は二度にわたり遠い島々(奄美大島、沖永良部島)へ流罪となったが、その滞在中に漢詩と書を極め、相撲に親しみ、民衆の過酷な暮らしを自らの肉体で体験した。1864年に赦免され、ようやく薩摩への帰還を果たす。

宮廷になじめなかった男

その後4年間、隆盛は明治維新へと至る政治的・軍事的闘争で主導的な役割を担った。薩摩軍の指揮官に任じられた彼は、島津久光とともに長州藩との同盟を決断し、1603年以来将軍職を世襲して国を支配してきた徳川氏の軍勢と対峙した。1868年、西郷軍は江戸(現在の東京)を掌握し、徳川氏に壊滅的な打撃を与えた。約700年前に樹立された武家政権「幕府」は廃止され、天皇の権威を後ろ盾とする新政府が発足し、国の近代化改革に乗り出したのである。

維新最大の功労者の一人でありながら、隆盛は政府の要職を退いて薩摩へ帰った。1871年に説得されて政治の中心地へ赴いたものの、そこで居心地の悪さを感じていたのだ。燕尾服やシルクハットの流行をよしとせず、平気で故郷の服装に草鞋や下駄姿で宮中に現れた。嵐の中で役所を出た際に下駄を脱ぎ捨て、裸足で歩いていたところ、衛兵に不審者と間違えられた逸話も残っている。通りかかった大臣の馬車による介入で、ようやく事態は収まったという。

丁髷を結うことと帯刀を禁じられ、新しい帝国軍に加わることもできなかった武士たちは、貧困へと転落していった。

隆盛の違和感は、政府が推し進める政策とも深く結びついていた。1871年の廃藩置県により、藩は国家の管理下に置かれた。旧大名たちは終身の俸給を受け取り、領地の負債を国に清算してもらい、帝国軍の士官や県令として再出発できたため、この改革を概ね好意的に受け止めた。

しかし下級武士にとって、これらの改革はある生活様式の終わりを意味した。将来を保証する人脈を持たない彼らは、士族としての俸禄を失い、貧困に沈んだ。さらに追い打ちをかけたのが屈辱的な法令である。1871年の断髪令は武士特有の丁髷を、1876年の廃刀令は身分の象徴である刀の日常的な佩用を、それぞれ禁じた。

最後の決戦――城山

幕府打倒のために戦ってきた者たちにとって、武士の没落は到底受け入れられるものではなかった。隆盛は日本の近代化が不可避であることを理解しながらも、自分の指揮下で戦った仲間を裏切ることだけはできなかった。自らが討たれることで戦火が上がり、武士の威信が回復することを密かに願った彼は、朝鮮に対して交隣関係の承認を求める使節として派遣を志願したが、この提案は政府に却下された。

結局、隆盛はすべての官職を辞して薩摩に戻り、私学校を設立した。たちまち地域の若い武士たちが大挙して集まり、政府の警戒心を煽った。政府は彼が反乱のための軍隊を組織しているのではないかと疑った。1877年、薩摩の武器庫から武器を接収しようとする動きに憤った武士たちが蜂起すると、捕らえられた政府の工作員が拷問の末「暗殺のために送り込まれた」と自白したことを受けて、隆盛はついに弟子たちの先頭に立つことを決意した。

隆盛は東京進撃を計画したが、部隊は撃退され、鹿児島の城山に立て籠もることを余儀なくされた。9月24日、包囲され追い詰められた隆盛は、これが最後の戦いになることを告げ、兵たちに戦死を覚悟するよう伝えた。そして自ら運命に立ち向かった。黄色い着物をまとい、軍刀を手に、最後の抵抗者たちを従えて山頂から突撃したのである。銃弾を受けて重傷を負い倒れた彼は、伝統に従い、息絶え際に側近へこう願い出たという。
「もう十分だ。どうか、介錯の栄誉を賜りたい」
彼はゆっくりと起き上がり、皇居の方角を静かに見据え、短刀を腹に突き立て、その後、首を打たれて生涯を閉じた。

さらに読む
ピエール=フランソワ・スイリ『サムライ――日本の歴史1000年』PUR、2017年

年表
1828年
西郷隆盛、薩摩国に生まれる。質素な武士の家庭の出。
1858年
主君・島津斉彬の死後、二度にわたり島流しとなる。書、詩、瞑想に打ち込む日々を送る。
1868年
徳川氏打倒と明治時代の幕開けに主導的な役割を果たす。
1873年
政府の全官職を辞し、薩摩へ戻って私学校を設立。
1877年
西南戦争で敗北。城山にて自ら命を絶つ。