古代の歴史

エチオピアの歩んだ道――キリスト教とイスラム教のはざまで

エチオピアの歩んだ道――キリスト教とイスラム教のはざまで

エチオピア・ラリベラの岩切り教会の一つ、聖ゲオルギオス教会(13世紀) 出典:WIKIMEDIA COMMONS

アフリカの角の高地、紅海西岸に近い位置に成立したアクスム王国は、西暦1世紀以降、地中海世界とインド洋地域を結ぶ大交易路における重要な交易相手として台頭しました。

4世紀には、このエチオピア国家の支配者が、当時その沿岸を頻繁に訪れていた商人たちの宗教であったキリスト教に改宗します。こうしてエチオピア教会はアレクサンドリア総主教座の傘下に入り、エジプトの修道士の中から叙任された大司教を迎えました。領内には教会が次々と建てられる一方、それまで君主たちの権力と死後の記憶への願いを示してきたオベリスクは、次第に顧みられなくなっていきました。

6世紀にはアクスム王国は最盛期を迎えます。隣国イエメンのヒムヤル王国に介入し、キリスト教共同体を守ってエチオピア人の副王を据えるほどの勢力を誇るまでになりました。

イスラムの台頭

しかし、イスラム教の発展とアラブ勢力の征服により、紅海における交易の独占は失われ、キリスト教王国は緩やかな衰退へと向かいます。この過程は略奪の記録によっても裏付けられており、その最初の犠牲となったのがアクスム市です。7世紀、盗掘者たちが基礎を掘り崩したため、巨大なオベリスクが三つに折れて倒れました。

7世紀から8世紀初頭にかけて、シュアイバやジェッダの港へ向けて仕掛けられたアクスム軍の幾度かの攻勢は、紅海での包囲網を解こうとする王国の努力の表れでしたが、成功には至りませんでした。

その後、エチオピア史は史料に乏しい時代を迎えます。僅かな碑文や10世紀のアラブ人地理学者の記録から推測できるのは、ある女王が率いた反乱によってアクスム王国が打撃を受け、キリスト教徒の王が暗殺され、教会が破壊されたということにとどまります。

この時代以降、アフリカの角ではキリスト教化とイスラム化が同時に進行しました。両者の関係は時に共生し、政治・経済の面では相互に依存し合いながら、時に対立することもありました。高原地帯にはムスリム(イスラム教徒)の共同体が定住し、再興したキリスト教王国との交易に従事しました。

今日、彼らの存在を物語るのは墓標だけです。そこからは、紅海沿岸のダフラク諸島、東スーダン砂漠の金やエメラルドの産地、あるいはアラビア半島の諸地域といった、紅海に面した各地出身の商人たちから成る共同体の姿が浮かび上がります。カーディー(イスラム法裁判官)が司法を担う都市を中心にスルタン国が組織され、それらはキリスト教王国へと通じる交易路沿いに点在していました。

エジプトとの絆

同じ頃、混乱の時代を経て、キリスト教勢力はアレクサンドリア総主教座との接触を回復することに成功します。10世紀に断ち切られたエジプトとエチオピアの結びつきは、キリスト教共同体の存続そのものを脅かすものでした。

10世紀から12世紀にかけて、エジプトはファーティマ朝の支配下にあり、アレクサンドリアの総主教は宰相の同意なしには何も決定できませんでした。双方とも、エチオピアの地にある自らの信仰仲間を守ろうとしたのです。こうして時代とともに一種の均衡が築かれていきました。総主教は大司教を伴った使節団をキリスト教徒の王のもとへ定期的に派遣できるようになり、その見返りとして王は贈り物を献上するとともに、自国領内のムスリム商人の安全とモスクの建設についてエジプト政権に確約しました。

一方、キリスト教徒の王は、コプト教徒がエジプトで迫害されれば、自国のムスリムを攻撃すると脅しました。この脅しが現実の行動となることもありました。12世紀のあるエチオピア王は、王国北部のムスリム商人共同体への本格的な征服戦争を仕掛け、財産を没収し、住民全員を捕らえて、自ら創建した教会の土地で働かせたのです。

こうして相対的な平和が確立されました。それは、高原の資源(金、象牙、奴隷)へのアクセスを握るキリスト教勢力と、高原と海岸を結ぶ輸送路を掌握するムスリム勢力との間の、経済的共生に基づくものでした。

両世界は市場町で定期的に出会いました。キリスト教王国とムスリムのスルタン国との間では婚姻同盟が結ばれ、14世紀以降、スルタン国は次第にキリスト教国家へ従属していき、皇帝(ネグス)はその後継者の決定にさえしばしば介入するようになりました。

時折起こる衝突は、こうした関係が常に交渉と緊張の上に成り立っていたことを示しています。しかし16世紀初頭、状況は一変します。数十年にわたるキリスト教側の監護の末、あるスルタン国内で、この体制からの脱却を目指す新たな政治勢力が台頭しました。彼らが担ぎ上げたのが、アフマド・イブン・イブラヒーム・アル=ガズィー(アフマド・グラン)です。イマームに擁立された彼は、スルタン家との姻戚関係を一切持たない人物でした。彼は多民族混成の軍隊を編成することに成功し、1531年からまずキリスト教王国の影響下に入っていたムスリム領を奪還、さらに王国本土の征服へと乗り出します。ネグスとその軍は逃亡を余儀なくされましたが、ポルトガル部隊の援護によって形勢は逆転します。1543年にイマームが死去すると、キリスト教軍はジハードで奪われた領土を取り戻しました。こうしてキリスト教王国の再建が始まりましたが、王国はこの戦争によって深く変貌を遂げていたのです。

詳しく知るために

『11〜13世紀エチオピア・キリスト教王国における聖なる簒奪王朝の謎』 マリー=ロール・ドラ著、Brepols社、2018年

その他の信仰

キリスト教化以前のアクスム王国で信仰されていた宗教については、依然としてよく分かっていません。蛇への崇拝、大地と星辰の神々、天空の主への礼拝などがあり、そこには近東的な宗教的雰囲気と深く土着的な要素の両方がうかがえます。複数の神々の体系が共存していたことはほぼ間違いなく、これらの信仰はキリスト教化とイスラム化の後も息づき続けました。実際、高原の広範囲には11世紀から14世紀に年代づけられる巨大な墳丘墓が残されています。これらはキリスト教徒でもムスリムでもない葬送習慣を物語りますが、どの信仰に結びつくのかは、今なお答えの出せない問いです。

14世紀以降の史料には、エチオピアのキリスト教王に反旗を翻したユダヤ教徒についての言及もあります。「ファラシャ(「追放された者」の意)」という蔑称で呼ばれた彼らは、土地を相続する権利を持たず、報酬の良い職業からも排除され、周縁地域へと追いやられました。20世紀には、その多くがイスラエルへ移住しています。