
1859年、チャールズ・ダーウィンによる『種の起源』の出版は、科学者のみならず一般の人々の間にも、類人猿への関心を一気に高めました。ダーウィンは、類人猿が進化の連鎖において人類と共通の祖先を持つと考えていました。アフリカ探検の進展はこの大陸に関する新たな情報をもたらし続け、ダーウィンの理論を裏付けるかのような新種の発見さえ実現させました。そのひとつがゴリラです。今日では、ゴリラが人類に最も近い親戚のひとつであることが知られています。
大人気を博した霊長類
1847年、アメリカ人宣教師トマス・サヴェージが、現在のガボンにあたる地域で発見された骨格に基づき、この動物について初めて科学的な記述を行いました。この発見を受けて、複数の科学論文が「ゴリラ」と呼ばれる新種の霊長類の定義に取り組みます。ちなみに「ゴリラ」という言葉は古くから存在し、古代カルタゴの探検家ハンノ(航海者ハンノ)が、アフリカ沿岸で目撃した毛深い女性たちを指すのに使っていた用語でした。
1861年、フランス系アメリカ人の無名の探検家、ポール・ベロニ・デュ・シャイユによる『赤道アフリカ旅行と冒険』が出版されます。彼はガボンの地での放浪の旅を綴り、80種もの動物を発見したと主張しました。とりわけ、初めてゴリラと遭遇したときの劇的な描写や、数頭のゴリラを追い払ったという逸話は読者の心をつかみました。人気が高まるにつれ、彼は各地で講演会を開くようになり、剥製のゴリラ標本を披露しながら、アフリカでの冒険譚を語って聞かせました。
デュ・シャイユは西洋の聴衆に、彼らがアフリカに抱いていた期待通りのもの――謎、ドラマ、そして異国情緒――を提供しました。彼自身はこの霊長類の「発見者」を名乗らなかったものの、ゴリラを狩った最初の白人であり、自然環境下でこの動物を研究した最初の人物であると主張しました。しかし、その科学的な主張や、ゴリラの体格・行動・性格に関する誇張に満ちた描写は、科学界からたちまち信用失墜キャンペーンの標的にされてしまいます。
デュ・シャイユ、学者か、それとも詐欺師か?
彼の著作には曖昧な点や矛盾が数多く含まれていましたが、何よりも争点となったのはゴリラに関する記述でした。本当に彼自身がゴリラを狩ったのか疑われ、宣教師たちによる先行の記述や、現地の民間伝承、アフリカ人猟師の証言を盗作したのだと非難されたのです。実際のところ、デュ・シャイユはガボンの宣教師学校で学んだ経験があり、そこで世話になったのがジョン・ウィルソンでした。ウィルソンこそ、数年前にサヴェージへ最初のゴリラの骨格をもたらした人物です。さらに彼にとって不利なことに、出自に関する噂まで広まりました。彼はフランス人商人と、レユニオン島出身の黒人ないしムラートの女性との間に生まれた私生児だというのです。こうした「人種」をめぐる事情が、科学界の探検家に対する敵意をいっそう煽ることになりました。
1861年、デュ・シャイユが持ち帰ったゴリラの頭蓋骨は、ビクトリア朝時代における人類進化をめぐる激しい論争の中心となりました。
科学者たちには話を盛っていると見なされながらも、デュ・シャイユは大衆の支持を保ち続け、人々は彼をゴリラの発見者と結びつけて考えるようになりました。進化論が世界の常識を覆しつつあった当時、彼は著書の中でこの猿を「半分は人間、半分は野獣」だと表現しています。1861年に持ち帰られたゴリラの頭蓋骨は、人類進化をめぐるビクトリア朝の白熱した議論の中心となりました。そして2年後、「単なるゴリラ猟師」と科学者たちに蔑まれていたこの探検家は、2度目の探検に乗り出します。そこから生まれたのが『アシャンゴの国』であり、彼はその中で小さな人類――ピグミーの発見について語りました。デュ・シャイユは、進化における「失われた環(ミッシングリンク)」を発見したのでしょうか?
実際のところ、彼が西洋に持ち込んだゴリラを自らの手で狩った可能性は低いと考えられています。彼は自分の体験談を歪め、誇張することで、ゴリラを凶暴で残忍な生き物へと仕立て上げました。この霊長類像は、後の研究によって明らかになったゴリラの実態とは一致しません。それでもなお、霊長類学者や探検家たちは、デュ・シャイユの記述を修正し、訂正し、あるいは否定しながらも、彼に言及し続けました。いずれにせよ、彼の名前は、彼自身が「アフリカの森の王」と呼んだあの動物と、永遠に結びついているのです。
巨大で咆哮を上げる怪物
デュ・シャイユは、最初のゴリラとの遭遇を次のように語っています。
「それは決して忘れられない光景だった。身の丈は6フィート(約1メートル80)近くに見えた。体は巨大で、胸は怪物のように隆起し、両腕は信じられないほどの筋力に満ちていた。……我々の視線は彼を怯ませなかった。彼はそこに立ち尽くし……その巨大な拳で胸を打ち鳴らしたのだ。……これは敵への挑戦の仕方であり、同時に彼は凄まじい咆哮を上げたのである」