マケドニアは、ギリシャ半島北東部、テルマイコス湾の先端に位置する古代の平原王国です。紀元前4世紀にはギリシャ全土への覇権を確立し、さらにインダス川流域にまで領土を拡大しました。この短期間ながら圧倒的な栄華を誇った帝国は、古代ギリシャ文明を広大な地域へと伝え、いわゆる「ヘレニズム時代」の幕開けをもたらしたのです。
クレオパトラ:事実か、それともフィクションか?
クレオパトラとは、どんな人物だったのでしょうか。野心に満ちた帝国主義者?優れた学識を持つ統治者?それとも悲恋の物語のヒロイン?歴史上最も有名な女性の一人である彼女の姿は、伝説と事実が入り混じって描かれてきました。ここでは、クレオパトラをめぐる通説の中から、真実を見分けるポイントを紹介します。
先史時代のマケドニアと「マケドニア人」の起源
先史時代のマケドニアは、文化的に主にギリシャとアナトリア(小アジア)と結びついていました。自らを「マケドニア人」と称する民族は、紀元前700年頃から存在が知られており、初代王ペルディッカス1世とその子孫に率いられ、ハリアクモン川(アリアクモン川)沿いの故地から東方へと進出していきました。
この民族の起源とアイデンティティについては、今日に至るまで多くの議論があります。彼らを民族的にギリシャ人の一部とみなすべきだとする立場と、ギリシャ人ではなかった、あるいはそもそも起源を特定できないとする立場との間で、現代においても熱い論争が続いているのです。論争の焦点の一つは、紀元前5世紀以前にこの人々が一種のギリシャ語を話していたのかどうかという点にあります。
いずれにせよ、紀元前5世紀までには、マケドニアの支配層エリートが古代ギリシャ語の一形態を採用し、統一された王国を築き上げていたことは明らかです。当時、アテナイが沿岸地域を支配していたため、マケドニアの王たちはむしろ内陸部の高地と平野の制圧に力を注ぐことになりました。この課題は、最終的にアミュンタス3世(在位:紀元前約393年〜370/369年)によって達成されます。
ピリッポス2世とマケドニアの躍進
アミュンタスの息子たちのうち、アレクサンドロス2世とペルディッカス3世は、いずれも短期間の在位にとどまりました。三男のピリッポス2世(在位:紀元前359年〜336年)は、幼い甥の後見人として政務を代行していましたが、国内の秩序を回復すると自ら王位に就き、マケドニアをギリシャ世界における支配的な強国へと押し上げました。ファランクス(密集歩兵戦術)の改革や外交手腕によって、彼はギリシャの覇権をほぼ手中に収めたのです。
アレクサンドロス大王とヘレニズム世界の形成
ピリッポスの子であるアレクサンドロス3世、すなわちアレクサンドロス大王(在位:紀元前336年〜323年)は、強大なアケメネス朝(ペルシア)帝国を打ち破り、マケドニアの支配圏をナイル川からインダス川にまで拡大しました。しかし、バビロンでの彼の急逝後、将軍たちは帝国のサトラピー(州)を互いに分割し、それを足がかりとして帝国全体をめぐる覇権争いを繰り広げました。紀元前321年から301年にかけて、戦争はほぼ絶え間なく続いたのです。
マケドニア本土は依然として帝国の心臓部であり、その領有権(ギリシャの支配権とともに)は激しく争われました。ヨーロッパにおけるアレクサンドロスの摂政であったアンティパトロスとその子カッサンドロスは、カッサンドロスの死(紀元前297年)までマケドニアとギリシャの支配を守り抜きましたが、彼の死はマケドニアを内乱の渦へと突き落としました。デメトリオス1世ポリオルケテスの6年間の統治(紀元前294年〜288年)の後も、国は内部混乱に苦しみ、北方からのガラティア人(ケルト系)略奪者たちの侵入が混乱にさらに拍車をかけました。
アンティゴノス朝による安定
紀元前277年、デメトリオスの有能な息子アンティゴノス2世ゴナタスがガラティア人を撃退し、マケドニア軍から王として推戴されました。彼の時代に国は安定した君主制を取り戻します。こうして樹立されたアンティゴノス朝は、紀元前277年から168年までの約100年にわたりマケドニアを統治することとなりました。
ローマとの衝突と属州への道
ピリッポス5世(在位:紀元前221年〜179年)とその子ペルセウス(在位:紀元前179年〜168年)の治世、マケドニアは台頭しつつあったローマと衝突し、敗北を喫しました(いわゆるマケドニア戦争)。ローマの支配下に入ると、マケドニアは当初(紀元前168年〜146年)、相互に結びつきを持たない4つの独立共和国として再編されました。しかし紀元前146年には、4つの地区を行政単位とするローマの属州へと改組されます。
その後もマケドニアはギリシャの防壁(ブルワーク)としての役割を担い続け、北部国境では周辺諸部族との戦闘が頻発しました。紀元400年頃になると、マケドニアはモエシア管区の下で、「マケドニア第一」と「マケドニア・セクンダ(第二マケドニア)」という二つの属州へと分割されることになります。古代王国としてのマケドニアの歴史は、こうしてローマ帝国の一部として新たな章を迎えたのです。