
急降下爆撃という発想は、両大戦間期に生まれた。ドイツは当時提唱されていた様々な理論を検証し、従来の水平爆撃よりも急降下爆撃の方がはるかに有利だとの結論に達した。従来の方法が「目標地域」を攻撃し、そのうちの幾らかが偶然目標に命中することを期待するだけだったのに対し、急降下爆撃は「目標地点」そのものを正確に叩ける方式だったのである。
ストゥーカ誕生までの道のり
こうしてドイツは、最初の急降下爆撃機として小型複葉機ヘンシェルHs 123の製造に着手した。この機体はスペイン内戦で実戦テストを受け、その有効性を実証している。同時にドイツは、さらに強力な急降下爆撃機の開発も並行して進めていた。やがてその名はドイツ軍の電撃戦と結びついて世界に知られることになる、「シュトゥーカ(Stuka)」である。
ストゥーカが初飛行したのは1935年のことだった。この試作機は双垂直尾翼を持ち、イギリス製エンジンを搭載していた。2年後の1937年には量産型Ju-87Aの生産が開始される。A型は単一の垂直尾翼に改められ、ドイツ製エンジンを搭載し、急降下爆撃を行うための特殊な補助装置も備えていた。
量産型Ju-87Bと実戦投入
Ju-87AはほどなくJu-87Bへと更新された。B型は初めて大量生産され、実戦に投入されたモデルである。出力1,100馬力のユモ エンジンを搭載し、最高速度は時速390kmに達した。武装は7.92mm機関銃3挺(主翼に2挺、後部コックピットの銃手が操作する1挺)で、最大700kgの爆弾を搭載可能だった。
スペインには1936年にまず1機のJu-87Aが送られ、1938年初頭にはさらに3機のA型、その後若干のB型が追加派遣された。ポーランド、オランダ、フランス、ギリシャで戦ったのはB型である。第二次世界大戦最初の作戦を遂行したのもストゥーカだった。ヒトラー、あるいは航空隊司令ウーデットの命令により、ストゥーカにはサイレンが取り付けられた。急降下の際にそれを鳴り響かせ、敵に恐怖を植え付けるためである。
しかし、ポーランド兵もギリシャ兵もパニックに陥ることはなかった。セダンで崩壊したフランス軍とは対照的である。一方、クレタ島の戦いにおけるストゥーカの存在は決定的な意味を持ち、イギリス海軍に特に深刻な損害を与えた。
バトル・オブ・ブリテンで露呈した弱点
バトル・オブ・ブリテンでは、ストゥーカの弱点が初めて明白になった。イギリスのスピットファイアやハリケーンを相手にすると、格好の標的と化して壊滅的な損失を被ったのである。ギリシャ戦では、ドイツとイタリアから供与されたストゥーカが使用されている。
東部戦線と改良型の系譜
東部戦線では状況がいっそう厳しかった。「バルバロッサ作戦」の第一段階において、ストゥーカはソ連軍に多大な損害を与え、地上で大量のソ連機を破壊したものの、大幅な改良が必要であることが判明した。そこで生まれたのが長距離型のJu-87Rである。続くD型はより強力な1,300馬力エンジンを搭載し、最高速度は時速408km、積載量も拡大されていた。
D型は最も重要なバージョンとなり、東部戦線で効果的に運用された。さらにソ連戦車の脅威に対処すべく、ストゥーカの対戦車型であるG型も開発された。G型は主翼に37mm砲2門を装備していた。
このほか、未完成に終わったドイツ空母への搭載を想定した艦上型Ju-87Cも存在する。雷撃能力を持っていたC型は、後にD型へと改修され、他の機体と同じく前線で戦った。
生産数と各国での運用
全バージョン合計6,500機のストゥーカが生産された。ドイツ空軍のほか、イタリア、ブルガリア、クロアチア、ハンガリー、ルーマニア、スロバキアの各空軍でも運用されている。1機はアメリカ軍に鹵獲され、1943年のチュニジアで実際に使用された。戦後には、ユーゴスラビアでもストゥーカが広く運用された。
史上最高のストゥーカ乗り、ルーデル
最高のストゥーカ操縦士とされるのがハンス・ウルリッヒ・ルーデルである。彼は戦車519輌、その他の車両1,000台以上、火砲150門、艦船70隻を破壊し、ソ連機3機を撃墜、さらにソ連戦艦1隻、巡洋艦2隻、駆逐艦1隻を撃沈した。あまりの脅威ぶりに、スターリンは彼の捕縛に10万ルーブルの賞金を懸けたと伝えられる。