
1864年春、北軍のユリシーズ・S・グラント中将は、南軍に降伏を強いるための大攻勢を開始しました。その作戦における重要な戦略目標の一つが、シャナンドー渓谷の掌握でした。
シャナンドー渓谷をめぐる南北の攻防
グラントは主力を率いて、南軍北バージニア軍を指揮するロバート・E・リー将軍に正面から挑みました。同時に、ドイツ出身のフランツ・ジーゲル少将に混成部隊約9,000人を預け、自軍の左翼を確保するとともに、シャナンドー渓谷を通ってリー軍の側面を脅かす任務を与えたのです。
ジーゲルはバージニア州スタントンへ向かい、クルック将軍率いる別働隊との合流を目指しました。当初の戦力は歩兵・騎兵合わせて9,000人と火砲28門で、サリバン准将の歩兵部隊とスタヘル少将の騎兵部隊に分かれていました。しかし行軍の途上、各地の警備に兵力を残さざるを得ず、前線に投入できる兵力は次第に約6,300人まで減っていきます。
「旅団」の名を持つ小部隊――南軍の苦しい戦力
一方、北軍が渓谷に侵入したとの報せを受けた南軍のジョン・C・ブレッキンリッジ少将は、手元にあるあらゆる兵力を動員して迎え撃つことを決めました。指揮下に入ったのは、エコルズ歩兵旅団、ホワートン歩兵旅団、インボーデン騎兵旅団、そして独立部隊です。
ただし、「旅団」という大仰な名称に惑わされてはいけません。実際の兵力は連隊1個程度で、合計しても4,000人あまりにすぎませんでした。その中には、シップ中佐の指揮するバージニア軍事学校(VMI)の士官候補生大隊――247名の少年たちと軽砲2門――が含まれていたのです。
数的劣勢での先制攻撃という決断
ブレッキンリッジはスタントンに兵力を集結させるとともに、騎兵にジーゲル軍の監視と、可能な限りの遅滞行動を命じました。5月13日、彼は数的に劣勢であるにもかかわらず、敵の動きを待つのではなく、こちらから仕掛けることを決断します。とはいえ、14日の午後にはすでにジーゲル軍の前衛がニューマーケット村の北に陣取っていました。
ブレッキンリッジは地形を巧みに利用し、敵に致命的な打撃を与えようと考えました。翌15日、歩兵を渓谷沿いに展開して正面を固め、騎兵を右翼に回して敵の側面を突く態勢を整えます。士官候補生大隊は予備として控えさせました。
ジーゲルもこれに呼応して部隊を配置し、左翼に騎兵を置いて敵騎兵の脅威に備えました。正午ごろ、小規模な前哨戦ののち、ブレッキンリッジは総攻撃を開始します。
戦線に生じた隙を埋めた少年たち
南軍は猛攻で北軍を圧倒し、ニューマーケットを占拠していたムーア旅団を押し戻しました。しかし攻撃はいったん停止し、戦線の再編成と砲兵の再配置が行われます。攻撃が再開されると、今度は北軍の優勢な砲兵火力の前に足止めを食らい、さらに2個連隊が無秩序に退却してしまったため、南軍の中央に大きな隙間が生じてしまいました。
ここでブレッキンリッジが命じたのが、予備の士官候補生大隊の投入です。少年たちは命令どおり戦線の穴へ進出しました。この戦闘でシップ中佐は負傷し、指揮はワイズ大尉が引き継いだのです。
同じころ、ジーゲルも二度にわたって反撃に出ましたが、いずれも撃退されました。ドイツ出身のジーゲルは興奮のあまり母国語で命令を叫んだため、部下の兵士たちには何を言っているのか伝わらなかったといいます。
「靴をなくした戦い」の誕生
反撃を退けたブレッキンリッジは前進を再開しました。ところが、雨でぬかるんだ野原を横断する際、多くの士官候補生の靴が泥に取られて脱げ落ちてしまいました。それでも少年たちは裸足同然のまま突撃を続け、ついには敵の砲兵陣地に肉薄して砲列を制圧してしまうのです。
北軍の戦列にはパニックが走り、兵たちは潰走しました。敗走した北軍はどうにかシャナンドー川を渡り切り、背後の橋に火を放つことで追撃を振り切りました。
このとき少年たちが泥の中で靴を失ったことから、この戦闘は「靴をなくした戦い」と呼ばれるようになったのです。
損害と勝利の意味
敗れた北軍の損害は、この規模の戦闘としては比較的重く、総計841人(戦死96人、負傷520人、捕虜225人)に上りました。一方の南軍は戦死43人――うち10人が十代の士官候補生――負傷474人、行方不明3人でした。
この勝利は、リー軍の側面を守り、グラントの作戦計画を大きく狂わせた点で極めて重要でした。しかし、この戦いが歴史に名を刻むことになった最大の理由は、他でもありません。敵の砲門に向かって進むことを少しも躊躇しなかった、あの恐るべし十代の士官候補生たちの勇気なのです。
