古代の歴史

スターリンの大粛清――赤軍最高の元帥トゥハチェフスキー断罪と抹殺の真相

スターリンの大粛清――赤軍最高の元帥トゥハチェフスキー断罪と抹殺の真相

1936年、スターリンは悪名高いモスクワ裁判の口火を切りました。この一連の裁判によって、数十万人の人々が死に追いやられるか、投獄されることになります。その犠牲者の一人こそ、当時ソ連最良の軍人と謳われたミハイル・トゥハチェフスキー元帥でした。

ナチスが捏造した「裏切りの証拠」

トゥハチェフスキーは、ナチス・ドイツが仕組んだ「裏切りの証拠」という罠の犠牲者となりました。当時、SD(ナチス親衛隊情報部)の長官だったラインハルト・ハイドリヒは、かつて白衛軍の古参将校であり二重スパイとして活動していたスクロビン将軍から入手した多数の文書を利用しました。

ベネシュ大統領経由でスターリンへ

赤軍再編の立役者であるトゥハチェフスキー元帥を断罪する内容のこれらの偽造文書は、何らかの経路でチェコスロバキアのエドヴァルド・ベネシュ大統領の手に渡り、そこからスターリンへと届けられました。興味深いことに、ソ連の指導者は文書の出どころを十分に承知しておりながら、それでもなおベルリンのソ連大使館に潜む工作員を通じて、ハイドリヒに300万ルーブルを支払ったのです。

番号を記録された紙幣と逮捕された工作員

支払いにはいわゆる「高額」紙幣が用いられましたが、ソ連側はその札番号を事前に記録していました。そのため、後にドイツの諜報員たちがこの紙幣をソ連国内で使おうとしたところ、即座に逮捕されるという顛末になりました。

赤軍内部の異論をつぶすための裁判

こうして手に入れたスクロビンおよびハイドリヒの文書を口実に、スターリンは将校たちに対する数多くの裁判を開始し、赤軍内部のいかなる異論も徹底的に抑え込もうとしました。そもそもスターリンとトゥハチェフスキーは長年にわたり互いに憎しみ合う関係にあり、1935年末以降、党と赤軍の関係は着実に悪化の一途をたどっていたのです。

恐怖政治が国を揺るがしていた

当時のソ連は、スターリンの恐怖政治に震えていました。無慈悲な秘密警察(GPU)は数百万人の国民を強制労働収容所へ送り込みました。白海とバルト海を結ぶ全長約225キロに及ぶ運河や、モスクワ・ヴォルガ運河といった巨大プロジェクトは、数十万人の囚人の過酷な労働によって実現したものでした。

エリート出身の「人民の敵」

トゥハチェフスキーはスモレンスク地方の名家の出身で、名門セミョーノフスキー近衛連隊に所属した元帝政ロシア陸軍士官でした。1918年に赤軍へ加わり、その人気と評価は疑いなくスターリンを凌ぐものでした。1920年のワルシャワ近郊におけるポーランドとの戦いで赤軍が壊滅的な敗北を喫した際、スターリンは嘲笑と批判を浴びることになりましたが、トゥハチェフスキーは多大な努力の末、崩壊した赤軍のいくつかの部隊を救い出すことに成功していました。

決して許されなかった屈辱

スターリンはこの一件を生涯許さなかったといわれています。1936年の時点で彼は、将校の大多数、とりわけ上級将官たちが共産党に敵対的であると認識していました。プラハ経由で入手した偽造文書は、赤軍内部の敵を一掃する絶好の口実となったのです。

粛清の凄まじい規模

トゥハチェフスキー、イェゴロフ、ブリュヘルの各元帥に加え、最高防衛会議のメンバーである将官80名のうち75名が銃殺されました。さらに、軍司令官15名のうち13名が粛清され、その他の将官367名も同じ運命をたどりました。1937年5月から1938年2月までのわずか10か月足らずの間に、32,000人を超える赤軍将校が処刑されたのです。

大粛清が残した代償

この赤軍への大粛清は、ソ連軍の指揮系統と指導層に壊滅的な打撃を与えました。経験豊富な将帥たちを失った赤軍は組織的に弱体化し、その空洞化は数年後の独ソ戦開戦当初におけるソ連軍の惨敗の一因となったと、歴史家の多くが指摘しています。スターリン自身の猜疑心とナチス・ドイツの巧みな謀略が合わさって生まれたこの悲劇は、20世紀最大の自滅的粛清の一つとして記録されているのです。