ロシアの大地では、何世紀にもわたって優れた軽騎兵を輩出してきた人々が存在した。最も有名なのはコサックであり、そのほかタタールやカルムクといったアジア系諸族もまた、同じ騎馬の伝統を受け継いでいた。コサックは16世紀以降、次第にロシア帝国軍へ組み込まれ、ロシア内戦が勃発するまで皇帝への忠誠を貫き続けたのである。
ソ連政権との決別
しかし革命後、新しいソヴィエト政権はこうした旧来の騎馬民族を警戒し、彼らは冷遇されることになった。そして運命的な転換点が訪れる。1941年、ナチス・ドイツがソ連に侵攻すると、多くのコサックはドイツ側に身を投じたのだ。ドイツ軍の各部隊は事前の計画こそなかったものの、次々とコサック騎兵を自らの隊列に組み入れていった。
ドイツ陸軍初の「公式」コサック部隊
1941年8月、赤軍のコサック連隊一個が丸ごとドイツ軍へ亡命した。この部隊はドイツ陸軍初の公式騎兵部隊となり、当初は「第102コサック支隊(102. Kosaken-Abteilung)」と命名された。その後、「第600東方支隊」を経て、最終的には「第5ドン・コサック連隊」と改称されている。
ヒトラーの方針転換と部隊の拡大
1942年4月、ヒトラーはコサック連隊の正式な編成を承認した。このとき4個連隊が創設され、最初の2個は南方軍集団管轄区域で、残る2個は中央軍集団管轄区域で編成された。
また、XL装甲軍団は捕虜となったコサックから分遣隊を立ち上げ、訓練を施したうえで第82コサック連隊第1中隊として再編した。彼らは1944年までドイツ軍として戦い続け、同年ノルマンディーの地で最期を遂げた。
パンヴィッツ中佐とコサック騎兵師団の誕生
1942年9月、ヘルムート・フォン・パンヴィッツ中佐は上官に対し、コサック師団の創設を提案した。自身も騎兵将校であったパンヴィッツは、すでにルーマニア騎兵と並んで戦うコサック部隊の指揮を経験しており、その手腕は折り紙付きだった。提案は受け入れられ、彼は新師団の編成と指揮を任されることになった。
師団は1943年8月に正式に編成され、プラトフ、フォン・ユンゲシュルツ、レーマン、コノノフ、フォン・ヴォルフの5個コサック連隊を基幹とした。ほどなく小規模部隊も相次いで加わった一方、独立の地位を保ち続けた部隊も存在した。
師団の編制と戦力
コサック師団は最終的に2個旅団体制となり、各旅団は3個連隊と騎乗砲兵中隊を擁した。各連隊は6個の騎兵中隊(エスカドロン)で構成され、旅団には重榴弾砲部隊も置かれ、81mm迫撃砲4門と機関銃4丁を装備していた。
さらに師団直属として50mm対戦車砲を備えた対戦車部隊が配属され、後方支援部隊も整えられた。火力の面ではやや軽装だったものの、各連隊約2,000名という厚みのある人員がその弱点を十分に補っていた。
ユーゴスラビアでの戦い、そして悲劇的な結末
コサック師団はクロアチアへ移駐し、チトー率いるパルチザンの討伐作戦に従事した。その後、第2師団の創設が決定され、その基幹となったのは第1コサック師団の第2旅団である。
1944年末には第3師団の創設も決まり、3個師団は第15SSコサック騎兵軍団へ統合された。ソ連軍がユーゴスラビアに到達すると、コサックたちはかつての同胞と銃火を交える運命に直面した。
この地で新たに編成された2個師団は解体され、第1師団は他の師団の残存兵力とともにオーストリアへ退却し、最終的に英軍に降伏した。だが彼らはオーストリアのリーンツにおいてソ連側へ引き渡され、兵士たちの運命はすでに決定づけられていた。中将へと昇進していたパンヴィッツは、部下たちを見捨てず、自ら進んで彼らと運命を共にすることを選んだ。彼は1947年、モスクワで処刑されている。
カルムク騎兵部隊の興亡
ほぼ同じ経緯で誕生したのがカルムク騎兵部隊である。ドイツ軍がエリスタ周辺のカルムク草原に到達すると、合計24個のカルムク騎兵部隊が組織され、主としてソ連パルチザンへの対抗作戦に投入された。
彼らはドイツ軍の撤退に随行し、1945年にはポーランドで戦い、ついには首都ベルリンの門前まで転戦した。幸運な者は戦場で戦死という名誉ある死を迎えた。しかし不運な者たちはソ連軍の捕虜となり、想像を絶する凄惨な最期を遂げることになったのである。