古代の歴史

カルガレニの戦い:ワラキア公ミハイ勇敢公、7倍のオスマン帝国軍を粉砕

カルガレニの戦い:ワラキア公ミハイ勇敢公、7倍のオスマン帝国軍を粉砕

1595年のカルガレニの戦いは、数多くの理由からバルカン半島史における最も重要な戦いの一つとされている。数で7対1と圧倒的に劣勢だったにもかかわらず、オスマン帝国軍に屈辱的な敗北を与えたこの戦いは、ルーマニア民族覚醒の出発点であると同時に、オスマン支配下に置かれたバルカン諸民族すべてにとって希望の光となったのである。

戦場はネアジロフ川のほとり

戦いは、現在のルーマニア・ブルガリア国境に近い村カルガレニ付近で行われた。ルーマニア軍を率いたのはワラキア公ミハイ2世、通称「勇敢公ミハイ」。彼の母テオドラ・カンタクジニはギリシャ系の名門カンタクジノス家の出身であり、ビザンツ帝国の血を引く人物でもあった。

ミハイが指揮下に置いたのは、ワラキア人(ヴラフ人)、傭兵、トランシルヴァニア人を合わせて1万6,000人の兵力だった。一方、これに対峙したのは大宰相シナン・パシャ率いる少なくとも10万人のオスマン帝国軍である。

圧倒的な敵の数的優位を相殺するため、ミハイは自軍を小さな川ネアジロフ川近くの野原へ移動させた。湿地帯のぬかるんだ地盤は、トルコ軍が全兵力を展開することを妨げるはずだった。

橋を利用した罠の構想

川に架かる小さな橋は、トルコ軍がミハイ軍と交戦するために必ず通過しなければならない地点だった。ミハイはそこに大砲12門を配置している。

ミハイの狙いは、トルコ軍を橋から渡らせて罠にはめることだった。全軍が一斉に渡河することはできないため、先頭の部隊だけを各個撃破できる。ここで勝利すれば、退却しようとするトルコ兵は崩壊し、後続の味方部隊にパニックが連鎖する計算だったのだ。

攻撃と機動

1595年8月13日(ユリウス暦、グレゴリオ暦では23日)、ミハイはトルコ軍を挑発すべく攻撃を仕掛けた。シナンはまんまと罠にかかり、「傲慢な相手」への反撃として1万2,000騎の騎兵に出撃を命じた。ところが対岸に渡り終えた瞬間、トルコ軍はミハイの大砲による集中砲火と、その直後の反撃を浴びることになった。

追い詰められたトルコ軍は退却を試みたが、多くの兵士が沼地で力尽きるか、川で溺死した。この事態を受け、シナンは利用可能な全兵力による再攻撃を決行。狂信的な精鋭イェニチェリが橋に突撃する一方、騎兵部隊はルーマニア軍陣地の両翼で機動し、包囲のための渡河点を探索した。

危機と逆転

イェニチェリの執拗な突撃は効果を上げ、シナンが送り込んだ騎兵の一隊はミハイ軍の左翼で浅瀬を発見する。この脅威に直面したミハイは、大砲を放棄して即時撤退を命じた。

しかし彼はカルガレニの手前で態勢を立て直し、敵の進撃を食い止めた。さらに、コケア隊長率いる400騎の援軍到着も幸いし、側面を脅かすトルコ軍へ反撃に転じたのである。トルコ軍は敗走し、橋の方へ押し戻されてイェニチェリの隊列に衝突。歩兵と騎兵が入り乱れ、機動も戦闘もままならない大混乱に陥った。

ミハイの兵士たちはパニックに陥ったトルコ兵を次々と討ち取りながら橋まで進撃し、大砲を奪還して敵を押し返した。シナンは反撃を試みたが、コケアの騎兵は巧みな機動でトルコ軍の野営地に達し、さらなる混乱を引き起こした。

一部の史料によれば、ミハイは自らシナンに斬り込み、馬から叩き落としたという。パシャは沼に落ちたものの、従者の一人に助け出されたという。同じ頃、ミハイの側面を突くために送られていた第二のトルコ騎兵師団が戦場に現れたが、司令官ハサン・パシャは主戦場で何が起きていたのかを知らないままだった。

ミハイは見事な戦術的柔軟性を発揮し、シナン本隊の追撃を中止すると全軍をハサン隊に向け、これを打ち破った。

圧倒的な勝利とその後

勝利は圧倒的だった。死傷者約1,000人にとどまったミハイ軍に対し、トルコ軍は1万〜1万5,000人規模の損害を被ったのである。とはいえミハイは、敗北したとはいえ依然として圧倒的に優勢な敵とこの地に留まり続けることは不可能だと悟っていた。

そこで彼はブカレストを放棄して北方へ退却し、ブカレストは一時トルコ軍に占領された。しかしトルコ軍がそれを長く享受することはなかった。トランシルヴァニア兵7,500人とオーストリア(神聖ローマ帝国)兵2,000人の増援を得たミハイは反撃に転じ、トゥルゴヴィシュテ、ブカレスト、ジウジウの各地でトルコ軍を撃破し、ついにワラキアから完全に駆逐したのである。

カルガレニの戦い:ワラキア公ミハイ勇敢公、7倍のオスマン帝国軍を粉砕