古代の歴史

1880年、大英帝国が味わった最初の屈辱――第一次ボーア戦争「ファースト・ブラッド」

1880年、大英帝国が味わった最初の屈辱――第一次ボーア戦争「ファースト・ブラッド」

第一次ボーア戦争は、歴史に記録された無数の紛争の中でも小規模な出来事にすぎなかったかもしれない。しかし、この戦争は世界史上最強の帝国と謳われたイギリスの威信に計り知れない打撃を与えた。だからこそ、特別な意味を持つ戦争となったのである。

二つのボーア人国家とダイヤモンド

1852年、ボーア人は自らの国家である南アフリカ共和国(トランスヴァール共和国)を樹立した。2年後には、もう一つのボーア人国家オレンジ自由国が建国されている。イギリスは当初、これら二つの国家の内政に関与しなかった。それが変わったのは1860年代、彼らの土地でダイヤモンドが発見されてからのことである。

イギリスは先住民グリクア人の利益を守るという名目で介入し、ダイヤモンド採掘権をめぐってボーア人に対抗するグリクア人を支援した。そして1877年、トランスヴァールの財政破綻宣言に乗じたイギリスは、ほとんどクーデターとも呼ぶべき手法で同国を自国領に併合し、首都プレトリアに国旗を掲げた。こうしてボーア人は、望んでもいないのに再びイギリス王室の臣民とされたのである。

開戦の引き金となった税金事件

状況が一変したのは1880年のことだった。行き過ぎて抑圧的となったイギリスの統治政策が、ついに火種に火をつけたのである。同年11月、イギリス当局があるボーア人に対して高額の税金を要求した。ところが当人は、自分が納めるべき額はもっと少ないことを証明してみせた。当局はその主張が正しいことを認めたものの、譲歩した格好になるのを嫌い、納税の際に罰金まで課したのだ。

罰金の支払いを拒むと、イギリス側は彼の荷馬車を差し押さえた。ところが翌日、武装したボーア人100人が現れ、荷馬車を力ずくで取り戻してしまう。緊迫した空気の中、イギリスは部隊を派遣し、やがて最初の一発が撃たれた。新たな戦争の始まりである。

ボーア人の目に、この一件はイギリスが自分たちを二等市民と見なし、富を巻き上げることしか考えていない証拠に映った。そこで彼らは集会を開き、今後の方針を決めることにした。

イギリス当局は集会を禁じたが、集会は1880年12月についに実現した。4,000人のボーア人が参加し、トランスヴァールの独立を要求するとともに、パウル・クリューガーを筆頭に、ピート・ジュベール、マルティヌス・プレトリウスからなる三頭の執政を選出した。プレトリアがイギリスの手にあったため、ボーア人はハイデルベルクという小さな町を首都と定め、戦闘への備えを本格的に進めていった。

第94歩兵連隊の悲劇的な行軍

ボーア人の独立宣言と最初の衝突はイギリス支配層を目覚めさせたが、駐留兵力はあまりに少なく、できることは限られていた。わずかな部隊すら各都市に分散配置されていたのである。プレトリアにはイギリス軍指揮官コリー中将の司令部が置かれ、歩兵5個中隊、少数の騎兵、砲4門を擁する砲兵隊、工兵45名、そして後方支援・衛生部隊などが駐屯していた。

事態の急展開に不意を突かれたイギリスは、開戦の可能性すら想定しておらず、行動計画を一切用意していなかった。その結果、主導権は当初からボーア人側に握られ、1880年12月末までに孤立した各イギリス軍守備隊は、緩やかに包囲されていくことになった。

そんな中、アンストラザー中佐率いる第94歩兵連隊の本部要員と2個中隊は、警備任務についていたライデンブルフからプレトリアへ移動せよとの命令を受けた。部隊は12月5日に出発した。アンストラザーが率いたのは、第94連隊の252名、輜重隊12名、軍医1名と看護要員3名、そして部下とプレトリア守備隊向けの補給物資を積んだ荷馬車34台である。隊列には女性3名と子供2名も同行していた。

多数の荷馬車のため、縦隊の行軍速度は遅かった。12月17日、アンストラザーはプレトリアからの伝令により、付近を強力なボーア人部隊が移動していると通告され、行軍中の警戒強化を命じられた。

アンストラザーには騎馬斥候4名が付き、その後ろに本人がエリオット大尉、副官ハリソン中尉とともに位置した。輜重隊長エガートン中尉もこれに同行した。さらに後ろには約40名の第94連隊軍楽隊が続き、行軍の間じゅうさまざまな行進曲を奏でていた。

次いでF中隊の40名が続き、連隊旗手とA中隊がそれに従った。その後ろには野営分遣隊21名、5名を率いる糧秣将校、武装していない18名の兵士の護送が続いた。さらに後方では、両側に護衛をつけた荷馬車が一列に連なり、全長1,600メートルを超える縦隊の最後尾は20名の分遣隊が閉じていた。

逃れられぬ待ち伏せ

正午12時30分ごろ、イギリス縦隊は夜営を予定していた村まであと3キロに迫っていた。だが、そこにボーア人が追いついたのである。道路の左側、草木に覆われた地に総勢約250名のボーア人が展開していた。うち200名はジュベールの指揮のもと縦隊の先頭に向けて、残る50名は最後尾に向けて配置されていたのだ。

イギリス隊は平然と行軍を続けていたが、やがて軍楽隊が演奏をやめ、全員が一斉に左の方へ視線を向けた。道の盛り土の上、背の高い草むらや小さな木々の陰から、突然約150名のボーア人が姿を現したのである。部下たちが行進を止めるのを見たアンストラザーは、馬で駆け戻り、荷馬車のそばへ近づいた。

すると今度は反対側から、白い布を手にした騎乗の男が現れ、一定の距離で停止した。エガートンが急ぎ向かうと、騎手は彼に一通の手紙を手渡した。手紙を読んだアンストラザーは、トランスヴァールが独立共和国として宣言されたこと、そして自隊は現在地にとどまるべきことを告げられた。プレトリア方面への移動を続ければ敵対行為とみなし、相応の措置を取る、という内容だった。

アンストラザーは、自分はプレトリアへ進むよう命令を受けており、その通りに行動するつもりだと回答した。こうしている間にも、ますます多くのボーア人が縦隊の左翼に殺到し、戦闘態勢を整えていった。

血みどろの戦闘

アンストラザーがF中隊に散開線を敷くよう命じたその瞬間、わずか200メートルの至近距離から致命的な一斉射撃が縦隊を襲った。イギリス兵たちは即座に地面に伏せて応戦を試みたが、遮蔽物のないまま、敵の容赦ない銃火に次々と倒れていった。

将校は一人を除いて全員が戦死または負傷し、兵士たちは戦闘の只中で指揮を失った。アンストラザー自身も脚に5発の銃弾を受けた。その間にも、ボーア人は荷馬車を引く牛を次々と撃ち始めた。

早くもイギリス側の損害は圧倒的となり、156名と女性1名が死亡するか負傷して地上に横たわっていた。アンストラザーは、部下を屠るだけの無益な戦いを見て取り、武器を捨てるよう命じた。降伏が成立したのである。

戦闘を生き延びたイギリス人医師ウォードによれば、死傷者一人あたり平均5か所もの銃創があったという。一方、ボーア人は負傷したエガートン准尉とブラッドリー軍曹がプレトリアへ赴き、負傷者の救援を求めることを許可した。

二人は重傷を押して翌朝プレトリアに到着した。エガートンは旗竿から切り取った第94歩兵連隊の軍旗を、血に染まれたシャツの下に隠して持ち帰っていたのである。しかし救援が到着した頃には、多くの負傷者にとってすでに手遅れだった。

アンストラザー自身も、切断手術を受けたにもかかわらず12月26日に亡くなった。ボーア人側の損害はわずか4名だったとされるが、イギリスは相手に44名の死者が出たと主張した。さらに恥ずべき敗北を正当化するため、アンストラザーの部隊は少なくとも1,000名のボーア人に襲われたのだと説明した――だが、それは真実とは程遠かった。

これこそが、イギリスにとって屈辱の戦争となった第一次ボーア戦争の最初の交戦、ブロンクホルストスプルイトの戦いであった。