謎に包まれたローマ第9軍団
ローマ帝国の精鋭軍団の一つでありながら、歴史の表舞台から忽然と姿を消した「第9軍団ヒスパナ(Legio IX Hispana)」。その失踪は今なお解明されていない、古代史最大級のミステリーの一つとされています。
軍団が正確にいつ編成されたのかは不明ですが、紀元前90年頃にはすでに同盟市戦争(社会戦)で戦っていた記録が残っています。
ポンペイウス説とカエサル麾下での戦い
一部の歴史家は、この軍団が紀元前65年にポンペイウスによってヒスパニア(現在のスペイン)で編成されたと主張しています。その後、軍団はユリウス・カエサルの指揮下に入り、ヘルウェティイ族(現在のスイス地方の部族)との戦い、さらにはポンペイウスとの内戦に参加しました。ドゥラキウム(現在のアルバニア・ドゥラス)の攻防、運命を分けたファルサルスの決戦、そしてアフリカでのポンペイウス派との戦闘でも奮戦しています。
オクタウィアヌスによる再編成
内戦の終結後に一時解散した軍団は、オクタウィアヌス(後の初代皇帝アウグストゥス)によって再編成されました。シチリア島ではセクストゥス・ポンペイウスと戦い、続いてマルクス・アントニウスとの決戦にも加わっています。
その後、軍団はヒスパニアへ送られ、カンタブリア人との戦争に従事しました。「ヒスパナ(スペインの)」という異名はこの時に与えられたものです。以降はライン川沿いの防衛任務に就き、のちにパンノニア属州(現在のハンガリー、セルビア、クロアチア、ボスニア周辺に相当する地域)へ移駐しました。
ブリテン遠征とブーディカの反乱
西暦43年、皇帝クラウディウスのブリテン遠征に参加するため、軍団はブリタニアへ派遣されました。50年頃には、ブリトン人の指導者カラタクス率いる勢力と戦いながら要塞化された基地を築き、この基地は後にイングランドの都市リンカーンへと発展します。
52年から57年にかけては、ブリトン人の反乱鎮圧作戦に従事しました。しかし、女王ブーディカの大反乱(60〜61年)では壊滅的な打撃を受け、歩兵部隊は全滅し、騎兵だけが逃延びたと伝えられています。それでも軍団は再編成を果たし、71〜72年には再びブリタニアでの戦いに参加。現在のヨークの地に新たな要塞基地を建設しました。
カレドニア遠征と最期の記録
82〜83年には、カレドニア人(現在のスコットランドの先住民)に対する遠征に参加し、グラウピウス山の大会戦においてローマ軍はカレドニア軍を完膚なきまでに打ち破りました。
そして、軍団がブリタニアに存在したことを示す最後の記録が、ヨークで発見された碑文による西暦108年のものです。
消える直前の足取り
いくつかの証拠からは、軍団またはその一部が、現在のオランダやドイツのアーヘン方面へ移動した可能性が指摘されています。130年頃まで当地に駐屯していたとする学者もいれば、軍団は「第6軍団ヒスパナ」に改称されたのだと主張する研究者もいます。ただし、後者の説を裏付ける確かな根拠は存在しません。
軍団の失踪 ― 三つの主要な説
こうして第9軍団は突如として歴史記録から姿を消します。その消失時期は130年から197年の間と考えられており、以下のような説が有力視されてきました。
1. ブリタニアで壊滅した説
最も基本的な説は、ブリタニアで現地民との戦闘の中で全滅したというものです。ドイツの歴史家テオドール・モムゼンは、ハドリアヌス帝の時代にヨークで壊滅したと論じました。モムゼンは、マルクス・アウレリウス帝の時代に活躍したローマの著述家フロンティスの言及を根拠としています。しかしこの説には、裏付ける考古学的発見や文献記録が一切なく、当時の歴史家が誰一人としてそのような大惨事を記録していないとすれば不自然だという批判もあります。
2. ユダヤで壊滅した説
別の説では、132年に勃発したバル・コクバの反乱の際、ユダヤで壊滅したとされます。しかし、これを示すローマ側の公式記録も、古代の歴史家による言及も見つかっていません。
3. パルティア戦で壊滅した説
さらに別の説は、東方でのパルティアとの戦争で壊滅したというものです。その拡張版として、パルティアに捕らえられた兵士たちがパルティア帝国の東部国境での戦いに投入され、やがてローマ兵が中国にまでたどり着いたという伝説的な物語まで生まれました。ただし、この説も確認できる証拠はありません。
現代文化に残る第9軍団
第9軍団の失踪の謎は、歴史研究者にとどまらず、作家や映画制作者たちの想像力をも刺激してきました。ローズマリー・サトクリフの小説『第九軍団のワシ』(The Eagle of the Ninth)はこの失踪を題材とした代表作で、2011年には映画『イーグル』としてスクリーンにも登場しました。
本記事末尾の動画も、この伝説的な物語に基づいたものです。