古代の歴史

「ハミドの虐殺」――史上初の組織的アルメニア人虐殺の全貌

「ハミドの虐殺」――史上初の組織的アルメニア人虐殺の全貌

オスマン帝国と非ムスリム民への迫害

トルコ(オスマン帝国)は、ギリシャ人、アッシリア人、アルメニア人などに対する大量虐殺の歴史を負っている。そして、こうした住民への虐殺が行われたのは、20世紀初頭の数十年だけのことではない。

「ハミドの虐殺」とは何か

アルメニア人にとって最大級の悲劇の一つが、1895年から1896年にかけて起こった「ハミドの虐殺」である。この名称は、当時のオスマン帝国スルタン、アブデュルハミト2世にちなむものだ。彼は自国の非ムスリム住民に対する改革を公約しながら、実際に彼らに差し出したのは剣と炎だったのである。

デモをきっかけに始まった虐殺

1895年10月、スルタンは改革を約束する勅令への署名を余儀なくされた。同年10月1日、コンスタンティノープル(現イスタンブール)では約2000人のアルメニア人が、この勅令の実施を求めてデモを行った。

しかしデモは暴力的に鎮圧され、これが引き金となって、帝国内のアルメニア人居住地域全域で凄惨な虐殺が開始された。虐殺はまず首都で始まり、ほどなくして各地へと飛び火していった。

アメリカ人記者が目撃した惨状

1895年にエルズルムに滞在していたアメリカ人ジャーナリスト、ウィリアム・ザクトレーベンは、タイムズ紙にこう綴っている。

「11月1日金曜日の夕方に私が目にした光景は、人間が見うる最も恐ろしいものとして心に刻まれた。私は兵士一名、通訳一名、アルメニア人写真家一名とともにアルメニア人墓地へ向かった。壁際には321の遺体が並んでいた。多くは無残な仕打ちを受けていた」

「ある死者の顔は完全に潰されていた。刀で斬られ、首が垂れ下がった者もいた。別の遺体は傷つけられ、両手が手首から失われていた。犬に食われたのかと尋ねると、答えは『いいや、トルコ人がナイフで切り取ったのだ』だった。数十人の死者は焼かれていた。勇者が戦いの中で死ぬことと、丸腰のまま兵士の手にかかって斬り殺されることは、まったくの別物である」

ウルファの教会で焼かれた3000人

ディヤルバクル駐在のフランス副領事ギュスターヴ・メリエも同様の事件を記録し、トルコ人は無防備な者ばかりを狙う臆病者だと強調した。

ウルファの町では、教会に避難していた3000人のアルメニア人が生きたまま焼き殺された。燃え盛る教会から脱出しようとした者は、その場で即座に殺されたという。

国家主導の「テロ政策」

この虐殺が公式に指示されたものであったことを裏付けるのが、スルタンの第一秘書による回想録である。そこにはこう記されている——「スルタンはアルメニア人に対するテロ政策の実施を決定した……」。虐殺はその後も1896年、1897年と続いていった。

犠牲者数をめぐる諸説

犠牲となったアルメニア人の正確な数を割り出すことは極めて困難である。資料によっては8万人から30万人との報告もある。

ドイツの宣教師ヨハネス・レプシウスは犠牲者を約8万9000人と推計し、約2500のアルメニア人村落の破壊と、強制的なイスラム教への集団改宗について言及した。同時に、数百の教会の破壊と328の教会がモスクへ転用されたことも記録している。さらに彼は、飢餓と苦難によって命を落としたアルメニア人は10万人を超えると推定している。

一方、イスタンブールの英国大使館は、1895年だけで犠牲者を10万人と見積もった。また、フランスやドイツの資料の中には、アルメニア人の死者が少なくとも25万人、加えてギリシャ人10万人、アッシリア人2万5000人に上るとするものもある。

「ハミドの虐殺」――史上初の組織的アルメニア人虐殺の全貌

アルメニア人の集団墓地。

「ハミドの虐殺」――史上初の組織的アルメニア人虐殺の全貌

トルコの残虐行為の犠牲となった罪なき子どもたち。