
地中海の覇者・メフメト2世とロドスの騎士団
1480年当時、「征服者」メフメト2世は東地中海における絶対的な君主として君臨していた。彼はヴェネツィア軍を撃破してエヴィア島のカルキス(ネグロポンテ)を攻略し、その権威は頂点に達していた。
一方、聖ヨハネ騎士団(ホスピタル騎士団)はドデカネス諸島、とりわけロドス島を本拠地としていた。同騎士団は聖地で創設され、独自の歴史を刻んできた。その後、活動の場をキプロスへ移し、15世紀初頭にはギリシャ本土においてもオスマン帝国と戦い続けていた。
やがて騎士団はドデカネス諸島を掌握し、小さな海軍国家を築き上げると、イスラム勢力に対する戦争を頑として続けた。メフメト2世は早くも1454年に騎士団を攻撃しており、1467年にも再び攻撃を仕掛けたが、いずれも成果を上げられなかった。しかしヴェネツィアとの戦争に勝利した後、メフメトは「騎士団がヴェネツィア側に協力した」ことを口実に、ロドスという厄介な「蜂の巣」をついに一掃することを決意したのである。
ギリシャ系重臣たちの影響
メフメトの決断には、3人の「ギリシャ人」の存在も影を落としていた。大宰相メシフ・パシャ(メシフ・パレオロゴス)、カルキス出身のデメトリオス・ソフィアノス、そしてロドス出身のアントニオス・メリガロスである。すでに1478年にはスルタンは説得を受け入れ、遠征の準備に着手していた。
オスマン艦隊、ロドスへ
1479年12月4日、トルコ艦隊の一隊がロドスを攻撃したが撃退され、ティロス島への攻撃も同じ運命を辿った。以後、この艦隊は主力の到着を待って後退した。1480年4月末、60隻のトルコ船が出航してロドス沖の艦隊と合流し、統合されたトルコ艦隊は同年5月23日、ロドス港の外海に姿を現した。
遠征軍の指揮官はメシフ・パシャであり、ソフィアノスとメリガロスが随行していた。ところがソフィアノスは航海途中で病死し、メリガロスも上陸直後、モデル子爵率いる騎士団分遣隊との小競り合いで討ち死にしてしまう。
一方、事前情報を得ていた騎士団総長ピエール・ドービュッソンは、可能な限りの防備を整えていた。集められる限りの騎士に加え、傭兵とロドス市民の民兵を編成したのである。総長が動員できた兵力は合計約7,000人で、うち5,000人はギリシャ人だった。これに対しトルコ軍の兵力は史料によって差があり、7万〜10万人、艦船100〜160隻とされる。ドービュッソンは西方諸国にも援軍を求めたが、誰ひとり関心を示す者はなかった。
上陸と最初の戦闘
トルコ軍はロドス市の西、聖ステファノスの丘(現在のモンテ・スミス)に上陸した。当地には騎士団の要塞があり、激戦の末に陥落した。トルコ軍は2日後、丘の頂上に砲兵陣地を築くと、重砲3門で港湾を扼する要衝・聖ニコラオスの塔への砲撃を開始した。
数日に及ぶ砲撃により、塔は大きく破壊された。6月9日、メシフ・パシャはイェニチェリ(精鋭歩兵)を塔へ突撃させた。しかし騎士団は剣を抜いて待ち構えており、その先頭には勇壮な総長ドービュッソンの姿があった。火球がドービュッソンの兜に命中したが、彼は笑って退避を拒み、「総長こそが名誉ある場所に立つべきなのだ」と言い放ったという。
城壁から側面を衝かれ、騎士団の凄まじい反撃を浴びたイェニチェリは崩れ落ちて敗走し、多くの者が海へ落ちて果てた。この敗北の後、メシフは攻撃の矛先を市壁、とりわけユダヤ人街区の方角へ向けた。
これに対しドービュッソンは、仮に外壁に突破口が開かれても内側の防衛線で食い止められるよう、第二の壁の建設を命じた。男も女も、老人も子供も懸命に働き、壁は間に合わせて完成した。
そこでメシフは再び作戦を変更し、半壊した聖ニコラオスの塔へ、海と陸の両面から新たな攻撃を仕掛けることにした。浮橋を建造し、攻撃部隊が城壁のクロスボウや火器の射程外から接近できるようにしたのである。
夜襲と即席の火器
攻撃は6月19日の深夜に始まり、翌朝10時まで休むことなく容赦なく続けられた。翌朝には数千に及ぶトルコ兵の死体が積み上がり、防衛側の優越と狂信的な覚悟を証明することとなった。
新たな流血の失敗に激怒したメシフは、砲兵隊に市壁への猛砲撃を命じた。トルコ砲兵は3,500発を超える砲弾を撃ち込み、城壁に大きな亀裂を生じさせた。
これに対抗して防衛側は巨大な投射機械を組み上げ、トルコの砲兵陣地を攻撃した。その間、ドービュッソンは敵の総攻撃を予期し、硫黄やアスファルトなどの可燃物を城壁上に集めるよう指示した。同時に防衛側は原始的な即席爆発装置も考案した。火薬と金属片を袋に詰めたものであり、さらには紙で作った簡素な手榴弾まで製作された。中に火薬と金属破片が仕込まれた、いわば原始的な手投げ弾である。
メシフは確かに総攻撃の準備を進めていた。しかしそれを仕掛ける前に、彼は条約による開城を要求した。ドービュッソンはこの提案を一蹴し、降伏を望む一部の騎士に対しては「去りたいなら自由に出て行け」と告げた。さらにこう付け加えた。「だが留まりながら再び降伏を口にするなら、お前たち全員を処刑するぞ」と。
運命の総攻撃
トルコ軍は数日間にわたる激しい砲撃の後、7月28日についに総攻撃を開始した。防御側を押し戻すため、8,000本の木材(パルーキ)が準備されていた。メシフは自らの大軍に市内での略奪を保証していた。「アッラー」の雄叫びとともにトルコ兵が雪崩れ込み、うち3,000の精鋭が城壁に開かれた主突破口を攻め、さらに40,000の兵が他の正面から攻め立てた。
この恐るべき人間の濁流を前に、防衛側は次第に押され、一つの堡塁にはメシフの軍旗が翻った。一部の史料によれば、この瞬間メシフは部下たちに略奪を禁じる宣言を出し、それが兵たちの勢いを削いだという。しかしこの逸話の信憑性には疑問が残る。第一に、白熱する戦闘と混乱の中で、何千という将兵にそんな伝達が行き渡ったのか。第二に、都市が目前に転がり込んでいたこの瞬間に、あえてそうした宣言で勝利を自ら手放すほど、メシフは愚かだったのか。答えはおそらく否である。
いずれにせよ、ドービュッソンはこの瞬間、最も勇敢な騎士たちを率いて猛烈な反撃に打って出て、侵入したトルコ軍を掃討した。部下の敗走を目にしたメシフは退却する兵を斬り殺し始め、さらに12名の精鋭イェニチェリに総長の討ち取りを命じた。しかし12名全員が無慈悲に叩き伏せられた。ドービュッソン自身は全身に五つの傷を負いながら、獅子のごとく戦い続けた。
「兄弟たちよ、ここで退くよりも死を選ぼう。名誉と我らの騎士団を守るために死ぬこと以上に、栄光ある死がどこにあるだろう」と彼は叫んだ。勇気を取り戻した騎士団は抜き身の剣をもって敵の大群へ突っ込み、捕らえた敵を次々になぎ倒し、敗走する兵をその野営地の門前まで追い詰めたのである。
征服者の屈辱的な撤退
この敗北はトルコ軍の士気を完全に打ち砕いた。2万4,000人もの損害を出しながら何の戦果も得られなかったメシフは、撤退を命じざるを得なかった。引き揚げる途上、トルコ軍はハリカルナッソス(現ボドルム)の聖ペテロ要塞(騎士団の城塞)を攻撃したが、ここでも撃退されて辱めを受け、ついに去っていった。
こうして、圧倒的な兵力を擁しながらも、少数の騎士団とロドス市民の結束した抵抗の前に、「征服者」メフメト2世は生涯に二度目となる大敗北を喫した。この包囲戦は、ヨーロッパにおけるオスマン帝国膨張の歯車を一時止めた戦いとして、歴史に名を刻んでいる。