古代の歴史

大きな箒がイタリア軍を一掃――愚か者ムッソリーニの北アフリカ大敗北

大きな箒がイタリア軍を一掃――愚か者ムッソリーニの北アフリカ大敗北

1940年6月10日、イタリアの独裁者ムッソリーニは、すでに崩れゆくフランスと、孤立無援のイギリスに対して宣戦を布告した。当時ムッソリーニは、戦争が自国に何ら利益をもたらさぬまま終結することを恐れていた。宣戦布告直後、イタリア軍はマリティーム・アルプス前線でフランス軍への攻撃を開始したが、惨めな形で撃退された。

しかし、フランスの降伏によって、ムッソリーニは勝者の列に加わることとなった。虚栄心という名のベールに包まれた彼は、フランスでの「勝利」の後、今度は北アフリカでその武力の運を試すことを決意した。標的は、イギリスが占領するエジプトであった。

準備される「帝国」

ムッソリーニには楽観する理由が十分にあった。アフリカ大陸には約45万人のイタリア兵が展開していたからだ。このうち20万人以上は、エジプトから一歩の距離にあるキレナイカ(古代ギリシアのキュレネ)に配置されていた。残りは東アフリカに展開し、当地のイギリス植民地や領有地を脅かしていた。

1940年8月初旬、北アフリカにおけるイタリア軍総司令官ロドルフォ・グラツィアーニ元帥の指揮下には2個軍があった。トリポリにはイタロ・ガリボルディ将軍率いる第5軍が駐留し、第10・第20・第23軍団からなり、6個歩兵師団、2個黒シャツ師団、1個リビア師団を擁していた。キレナイカにはベルティ将軍指揮下のイタリア第10軍が駐在し、第21・第22軍団所属の3個歩兵師団、1個黒シャツ師団、1個リビア師団を有していた。

しかしこの14個師団という数字に幻惑されてはならない。イタリア軍の補給は貧弱で、装備も人員も著しく不足していた。各歩兵師団が保有する中口径47mm対戦車砲はわずか8門にすぎなかった。装甲部隊に至っては、軽装甲車と軽戦車があるばかりだった。グラツィアーニ元帥が動員できた総力は、兵力152,775名、戦車410両、火砲1,441門、汎用車両8,000台であった。

揺らぐ「帝国」

1940年7月15日、ムッソリーニはグラツィアーニに対して攻撃を命じた。目標はエジプトとスエズ運河である。ところがグラツィアーニがようやく動き出したのは9月9日のことであった。この遅延は、手薄な輸送手段で各地に散らばる部隊をまず集中させねばならなかったためである。

苦難の末、イタリア軍は進撃を開始し、9月16日にはエジプト領内のシディ・バラニまで前進した。しかしそこで足止めとなる。バルディアにあった既設の貯水施設はフランス海軍の艦砲射撃で破壊されており、軍に水を供給する水道の建設を待つほかなかったのだ。

こうしてイタリア軍はシディ・バラニで約3か月間も身動きが取れなくなった。水道が完成したのは1940年12月3日のことであった。これを受けてグラツィアーニは12月15日にエジプトへの攻撃を再開する決定を下した。だが、イギリスの方が先手を打った。エジプトの運命をことのほか懸念したチャーチルは、本土への脅威が迫る中にあっても、エジプトを守る脆弱なイギリス軍の増強を決断したのである。

本物の帝国の反撃

エジプトのイギリス軍司令部はヘンリー・メイトランド・ウィルソン卿の指揮下に置かれ、作戦開始後の12月中旬に第13軍団と命名された。オコナー将軍率いるこの第13軍団は、名高い第7機甲師団(通称「砂漠のネズミ」)、第4インド歩兵師団、さらに2個歩兵旅団を擁していた。

うち1個旅団は、イタリア軍攻撃の次の目標となるマルサ・マトルーフの守備隊を務めた。まもなくこれらの戦力は第6オーストラリア師団によって増強された。イギリス軍の総兵力は約3万人であったが、その師団は完全に自動車化されており、機動性に富んでいた。

さらにイギリス軍は、戦車と航空機の質でも圧倒的に相手を上回っていた。とりわけA-12歩兵戦車、有名な「マチルダ」は、「戦場の女王」と呼ばれるにふさわしい存在だった。移動速度こそ遅かったものの、極めて強固な装甲を備え、イタリア軍の対戦車砲火ではほぼ無傷で済んだのである。敵味方の長所短所を吟味したウィルソンは、シディ・バラニ周辺のイタリア軍陣地に対して「攻勢偵察」を実施することを決めた。

イタリア軍を一掃する大きな箒

この地域のイタリア軍は一連の拠点に防御陣地を築いていたが、その構成はあまりに拙劣で、相互に支援し合える状態になかった。第10軍の4個師団は平均して互いに30kmも離れて配置されていたのである。この問題だらけの配備をつなぐ役割を担っていたのが、ニベイワに駐屯するマレッティ機甲群であった。イギリス軍は、最初の目標をまさにこのマレッティ群とすることを正しく見抜いた。

この集団を撃破すれば、孤立して動けない他のイタリア師団も各個に撃破できるはずだった。イギリス軍の「マチルダ」戦車群は12月8日夜から9日にかけて南西方向へ移動し、12月9日の朝にはマレッティ機甲群の南方に出現した。その接近の騒音は、イギリス空軍(RAF)による敵陣地への爆撃音にかき消された。こうした条件下で、イタリア軍の機甲群はあっという間に一掃された。

指揮官マレッティ将軍自身も戦闘中に戦死した。すべてが終わるまで4時間もかからなかった。同時に、第2リビア歩兵師団長ペスカトーリ中将は「砲声」を聞きつけ、マレッティ救援のため縦隊を編成して派遣した。しかしこの縦隊は途上で強力なイギリス軍マチルダ戦車群に粉砕され、夕方までに第2リビア師団も同じ運命をたどった。第4インド師団が22両のマチルダ戦車と協同で同師団を粉々に打ち砕いたのである。

同じ日、第1リビア師団はマルサ・マトルーフ守備旅団に奇襲され、シディ・バラニへ敗走し、今度は袋小路に追い込まれることになった。実際、12月11日にはシディ・バラニが第4インド師団とマチルダ戦車群によって攻撃され、守備を担っていた黒シャツ師団は文字通り四散した。

すでに4個師団を失っていたグラツィアーニは、エジプト国境に残る残存部隊に撤退を命じた。しかし命令伝達に誤りが生じた。その結果、「キレネ」と「カタンザーロ」の両師団は退路を断たれる形となり、甚大な損害を被った。

「要塞」バルディア

こうして先進部隊の残党は、ベルゴンツォリ将軍の指揮下、現在のリビア領内にある「要塞化された陣地」バルディアに逃げ込んだ。バルディアには約4万5千人のイタリア兵4個師団が430門の火砲の支援を受けて立てこもっていた。「要塞化された陣地」バルディアの防御線は全長38kmに及んだ。

防衛線は複数の小型コンクリート製トーチカに囲まれ、それぞれに機関銃2丁と47mm対戦車砲1門が配されていた。外周の外側には何もなかった。野戦砲はすべてまったく遮蔽なしに露出配置されていた。包囲された側が本格的な抵抗を見せると期待するのは、むしろ滑稽な話であった。

とはいえイタリア軍司令部には選択の余地がなかった。機動力のあるイギリス装甲部隊の追撃から徒歩部隊が脱出を図ることは不可能であり、撤退の考えなしにこの陣地で防戦する以外になかったのだ。イギリス軍は実際に12月17日にバルディアへの攻撃を開始した。

イタリア軍はよく持ちこたえ、その苦悶を翌年1月5日まで引き延ばした。この日、ベルゴンツォリ部隊の残存兵力は降伏した。攻撃開始の時点で、イギリス軍はすでに7万5千人のイタリア兵捕虜を獲得し、敵8個師団を撃破していた。彼らは勝利に満足することなく、ただちにトブルクへ攻め込み、1941年1月7日から1月25日まで同市を包囲した。

リビアへの追撃

この日、第6オーストラリア師団は市を守備していた2万5千人のイタリア守備隊の降伏を受け入れ、捕虜の総数は10万人に達した。それでもイギリス軍は止まらなかった。イタリア軍が防御を組んでいた海岸沿いの道路を行く代わりに、イギリス軍は再び砂漠を南西へ迂回し、イタリア領キレナイカ州南部の交通の要衝メキリを占領して、イタリア軍の背後に回り込んだ。

1941年2月9日、イギリス軍はシドラ湾岸のエル・アゲイラに到達した。これより東方で包囲されていたイタリア軍部隊もすべて降伏を余儀なくされた。わずか2か月間で、イギリス軍は900kmを進撃し、死者550名・負傷者1,973名という損害で、13万人のイタリア兵捕虜を獲得し、敵戦車約400両と火砲845門を鹵獲または破壊したのである。

これは前例のない大惨事であり、第一義的な責任はムッソリーニに、第二義的にはグラツィアーニにあった。「この非常に苦い日々の辛い経験から、我々は次の結論に達した。すなわち、この作戦地域においては、装甲師団1個が軍1個全体よりも強力である、と。」以上の一節は、滑稽きわまるイタリアの独裁者ムッソリーニの日記に記されていたものである。