古代の歴史

「大裏切り」!ドイツ軍の侵攻に乗じ、クロアチア人がセルビア人を裏切った1941年の悲劇

「大裏切り」!ドイツ軍の侵攻に乗じ、クロアチア人がセルビア人を裏切った1941年の悲劇

消えぬ敵意――セルビアとクロアチア

セルビア人とクロアチア人の間の敵意は広く知られており、時が経っても色あせることはない。しかし、その敵意がかつてないほど露呈したのが第二次世界大戦中であった。ユーゴスラビア王国は1941年4月6日、ドイツ、イタリア、ハンガリー、ブルガリアといった枢軸国の攻撃を受けたのである。

140万の大軍が機能しなかった理由

ユーゴスラビア軍は動員が完了すれば140万人を超える兵力を投入できるはずだった。しかし、奇襲攻撃と完全に誤った部隊配置のため、多くの部隊の動員すら間に合わなかった。

さらに決定的だったのが、攻撃を受けている最中にクロアチア人将校や兵士がユーゴスラビア軍から離脱していったことである。クロアチア人は侵略者と戦うどころか、場合によってはセルビア人の「同胞」に暴力をふるい、徴集そのものを妨害した。実際、開戦前夜にはクロアチア人パイロットがドイツ側へ亡命し、ユーゴスラビア空軍の全分散飛行場を記した地図を手渡していたのである。

「クロアチアの裏切り」の典型例――第40歩兵師団

こう呼ばれた「クロアチアの裏切り」の典型例が、主にクロアチア人で構成された第40歩兵師団「スラヴォンスカ」の事例だ。同師団は第1軍集団隷下の第4軍に所属し、ハンガリーとの国境防衛を任務としていた。

少将ラトコ・ラケティッチの指揮する第40師団は、第42・第43・第108歩兵連隊、第40砲兵連隊、偵察大隊、機関銃大隊および各種支援部隊を擁していた。1941年4月6日にドイツ軍の攻撃が始まると、クロアチア人たちは即座に戦闘を拒否した。第4軍全体が動員の完了に苦しみ、多くの部隊が動員を打ち切るか、集中地域から自発的に離れ始めた。

無線網までもがクロアチア人による破壊工作で麻痺した。翌7日、ドイツ軍は歩兵と少数の戦車をもって攻撃を開始。クロアチア人主体の第2/393国境警備大隊はたちまち崩はたちまち崩壊し、陣地も武器も捨てて逃げ散った。

公然たる反乱――第108連隊の蜂起

第108連隊ではクロアチア人たちが公然と反乱を起こした。彼らはセルビア人将校や同僚を拘束して南へ退却し、翌日には他の反乱クロアチア部隊と合流した。同時に、ドイツ軍が深く侵入しているという虚偽情報を流布し、セルビア人部隊に撤退を強いたのである。

4月8日、ドイツ第46機械化軍団は前進を続け、師団司令部しか守っていない第40師団の正面に到達した。第108連隊の兵士と第42連隊の大半は、クロアチア人大隊長イヴァン・ムラクの指揮の下ですでに反乱を起こしていた。第4軍司令官は憲兵隊の出動を命じたが、憲兵隊までもが脱走していた。

空爆も要請も実らず

その後、第4軍司令官ナンデリコヴィッチ将軍は反乱部隊への空爆を要請したが、これも実現しなかった。穏健派クロアチア政治家ウラドコ・マチェクの介入も試みられたが、何の成果も得られなかった。

共産主義者のティトーは、ザグレブで自衛できるよう労働者へ武器を支給するよう第4軍司令部に求めたが、ナンデリコヴィッチ将軍はこれを拒否した。ほどなくして、クロアチア人反乱兵たちが将軍と参謀の殺害を目論み、第4軍司令部に押し寄せた。司令部警備隊が彼らを撃退したものの、状況はもはや絶望的だった。

ビェロヴァル陥落と師団の崩壊

約8000人の反乱兵は、ビェロヴァルの町で見つけたセルビア人兵士を次々と拘束した後、町を襲撃した。そして「この街は独立国家クロアチアに属する」と宣言した。その間にもドイツ軍は前進を続け、第40師団の各部隊に残っていたクロアチア人も次々と脱走した。戦場に残ったのはセルビア人だけとなった。

第42連隊に残ったのはわずか600人。増援として派遣された第89連隊も解体状態で、1個大隊すら編成できるか怪しい有様だった。ドイツ軍が攻撃を再開すると、第40師団は文字通り崩壊した。師団司令部は対独戦の陣地を放棄し、今度はクロアチア人反乱の鎮圧に向かわざるを得なかった。

内なる敵が第4軍を滅ぼした

一方、クロアチア民族主義組織「ウスタシャ」は公然と蜂起し、進撃するドイツ軍に協力してセルビア人と戦っていた。ドイツ軍はクロアチア人捕虜を解放していった。こうして、外からの攻撃よりも先に、「内なる敵」が第4軍を完全に打ち砕いたのである。