第一次世界大戦中の1915年末、東部戦線ではオーストリア軍がドイツ軍の支援を受けて、ロシア軍をポーランドおよびガリツィア(現在の西ウクライナ)の奥深くまで押し戻していた。ロシア軍は甚大な損害を被っていた。皇帝ニコライ2世は同年8月、自ら軍の最高総司令官に就任したが、それによって戦局が好転することはなかった。
そもそも皇帝は軍事的素養に乏しい人物であり、総司令官就任は皇后の強い後押しによるものだった。そして皇后自身も、怪僧ラスプーチンの影響を色濃く受けていた。
1915年のクリスマスイブ、ガリツィア戦線の南端では、カール・フォン・プランツァー=バルティン将軍率いるオーストリア=ハンガリー第7軍が、イワノフ将軍指揮下のロシア南西方面軍(軍集団に相当する編成)と対峙していた。ロシア側の布陣は、シェルバチョフ将軍の第7軍と、レシチツキー将軍の第9軍である。
ロシア軍の攻勢
ロシア軍は、ルーマニアを連合国(三国協商)側へ参戦させることを目的に、オーストリア戦線南端、コルダ将軍率いるオーストリア第8軍団の担当区域に対し、第9軍による攻撃を決意した。当該のオーストリア軍団はそれまでの戦闘で疲弊しきっており、兵士の大半は高齢の予備役兵だった。これに対し、ロシア第9軍は3個軍団と大量の砲兵を展開していた。
1915年12月23日、ロシア軍の攻勢が開始された。第一梯団には4個歩兵師団、すなわち64個大隊が投入された。
オーストリア軍の指揮官は、自軍の数的・質的両面の弱点を熟知しており、周到な対策を講じていた。差し迫ったロシア軍攻撃の兆候をつかむと、彼は兵を第一線の塹壕から退避させ、第二防御線へ移動させたのである。
そのため、ロシア軍の砲撃がオーストリア軍の第一線塹壕を文字通り粉々に打ち砕いたとき、そこで命を落とした兵士はごくわずかだった。さらにコルダ将軍は、使用可能な火砕約100門を3つの「介入」集団に集中配置していた。オーストリア砲兵はあらかじめ地上に目標を設定し、ロシア軍が必ず通過する主要進撃路へ照準を合わせていたのだ。
地獄絵図
ロシア軍は損害を払いながらも、オーストリア軍が事実上放棄していた地域を一部占領し、12月27日に主力攻撃を発起した。だが、ここで地獄の蓋が開いた。ロシア軍の砲兵は愚かにも、もぬけの殻となったオーストリア軍第一線への砲撃を執拗に続けていた。そしてロシア歩兵が塹壕から飛び出した瞬間、待ち構えていたオーストリア砲兵から圧倒的な砲火を浴びせられたのである。
ロシア兵たちは恐怖のうちに、仲間が八つ裂きにされ、四肢が宙を舞う光景を目の当たりにした。この状況では攻撃は足止めされるほかなかった。それでもレシチツキー将軍は12月28日も攻撃を継続したが、結果は惨憺たるものだった。ロシア軍の砲兵は最後まで弾着修正をうまく行えず、無残な目に遭う歩兵を効果的に支援できなかったのである。12月29日には同じ手順で新たな攻撃が実施されたが、当然の帰結として失敗した。
こうした状況を受け、イワノフ将軍はさらに北方のオーストリア第6軍団に対して第7軍を投入することを決断した。この地区でのロシア軍攻勢は12月28日の夜に始まり、1916年1月1日まで続いたが、ロシア軍にとって悲劇的な結末しかもたらさなかった。これは前例を見ない虐殺であり、18,000人のロシア兵が戦死・負傷・捕虜となったのに対し、オーストリア軍の損害はわずか800人にとどまった。
「我々の砲兵の準備射撃の後、我々は敵の砲火の下を約1,500メートル前進した。敵陣まで500メートルに迫ったところで、機関銃と小銃の射撃を受けた。敵は10列の有刺鉄線網に守られた無傷の塹壕に潜み、我々を待ち構えていた」
「何時間ものあいだ、我々は敵地に伏せったままだった。敵陣に近接しすぎていて、負傷者を救い出すことすらできなかった……」。こう語るのは、虐殺から奇跡的に生還したロシア人将校である。
終わりの見えない犠牲
それでもロシア軍の攻撃は続けられた。1916年1月11日、ロシア第9軍は、まず歩兵師団一個が丸ごと壊滅した後、ようやくオーストリア第8軍団の陣地を突破した。さらに数日後、ロシア歩兵がオーストリア砲兵の陣地付近まで到達した際、悲惨なほど拙劣な連携の結果、今度は味方の砲撃によって殲滅されてしまったのである。オーストリア軍はロシア軍の杜撰さを見逃さず、反撃に転じて失地を回復した。
圧倒的な敗北にもかかわらず、2000年にロシア正教会によって列聖された皇帝ニコライ2世は、攻撃の続行を命じた。しかし、参謀たちはどうにか皇帝に攻撃の無益さを認めさせた。こうして、栄光なきロシア軍のガリツィア侵攻は幕を閉じた。
この戦いでオーストリア軍が払った代償は約30,000人。一方、ロシア軍の損害は100,000人近くに達したのである。