古代の歴史

1945年 ベルリン北方の死闘――マントイフェルと第3装甲軍、ソ連軍の猛攻を迎え撃つ

1945年 ベルリン北方の死闘――マントイフェルと第3装甲軍、ソ連軍の猛攻を迎え撃つ

オーデル川北正面――運命の1945年4月

ヒトラーのドイツが破滅へ向かうこととなった1945年4月。決戦の舞台となったオーデル川防衛線のうち、下流からバルト海河口に至る北部正面は、「ヴィスワ」軍集団が担当していた。同軍集団は南に第9軍、北に第3装甲軍を配置しており、後者の指揮官こそ、ハッソ・フォン・マントイフェル上級大将であった。

その対面には、ロコソフスキー元帥率いるソ連第2白ロシア方面軍(西方の軍集団に相当する規模の編制)が展開していた。同方面軍の正面幅は170kmに及び、南側ではジューコフ元帥の部隊と連接していた。4月16日、ジューコフは南方からベルリン目掛けて攻勢を開始した。しかし北方では、増水したオーデル川がロコソフスキーの攻勢開始を妨げていたのである。

両軍の戦力

第2白ロシア方面軍は33個狙撃兵師団、3個師団および複数の砲兵旅団を擁し、約8,300門の火砲に加えてロケット砲、さらに約950輌の装甲戦力を備えていた。これらの兵力は第19軍、第65軍、第70軍、第49軍、そして第2突撃軍に編成されていた。

一方のドイツ第3装甲軍は、名目上11個師団(実態は定員割れの部隊が大半)と220輌の装甲車両しか保有していなかった。これらの戦力は次のように配置されていた。

  • スヴィネミュンデ防衛区:第402教導師団と第3海軍師団(陸戦経験のない海軍要員のみで編成)
  • 第32SS軍団:第549国民擲弾兵師団(高齢者中心の部隊)、フォークト歩兵師団(他部隊の残存兵で急造された師団)、第281歩兵師団。4月27日には解隊された第7装甲師団の残存部隊で増強された。
  • SS「オーダー」支隊:第610歩兵師団、新編の「ヴェルマン」師団、新編の「クロゼック」旅団
  • 第46装甲軍団:第547歩兵師団と第1海軍師団

第3装甲軍の予備は、第3SS装甲軍団(第27SS義勇擲弾兵師団「ランゲマルク」、ベルギー人SSからなる第28SS義勇擲弾兵師団「ワロニー」)、第18擲弾兵師団、第15SS武装擲弾兵師団(ラトビア第1)で構成されていた。しかし、これらSS部隊の大半は第3装甲軍の指揮下から引き抜かれ、別の戦域で使用されることになった。戦闘の最中には、疲弊しきった第25装甲擲弾兵師団も利用可能となった。

ソ連軍、攻勢を開始

第2白ロシア方面軍は4月16日から攻勢準備に入った。これは、南方でジューコフがドイツ第9軍に対する攻撃を開始したのと同時期である。ソ連軍は攻撃開始位置に着き、4月19日から20日の夜にかけて赤色空軍がドイツ軍陣地への爆撃を開始した。4月20日、ソ連第65軍が攻撃を仕掛け、まもなくオーデル川西岸に橋頭堡を確立した。続いて第70軍も橋頭堡の確保に成功し、第49軍もそれに続いた。まもなくロコソフスキーは第2突撃軍を戦列に投入し、シュチェチンのドイツ軍要塞陣地を北側から迂回することを目指した。

マントイフェルの必死の対応

マントイフェルは手持ちの予備をすべて戦闘に投入し、ソ連第65軍の橋頭堡の側面を脅かすことで、他方面からのソ連軍の突進を食い止めることに成功した。翌4月21日、ソ連軍は圧倒的な数的・物質的優位を背景に攻撃を続けたが、ドイツ軍の正面を突破することはできなかった。翌々日の4月22日になってようやく、ソ連第70軍がガルツ地区で狭い突破口を開いた。ドイツ軍守備隊は激しく抵抗したが、最終的に降伏した。約300人の生存者が、4月24日まで戦い続けた末に脱出に成功している。

一方、南方のドイツ第9軍の戦区では、ドイツ軍にとって悲惨な事態が進行していた。その結果、第3装甲軍の南翼は文字通り「空中に浮いた」状態となった。4月25日、ソ連第70軍が橋頭堡を拡張したことで、パノフ将軍の第1親衛戦車軍団が投入可能となり、その戦車群はドイツ軍の防御線を突破した。わずかな予備をソ連第65軍への対処に投じていたマントイフェルには、この新たな脅威に対抗する力はもう残っていなかった。

苛烈な戦闘

それでもドイツ軍は、あらゆる予想に反してソ連軍の「圧路機」を一時的に停止させることに成功した。しかしその小休止は長くは続かず、ソ連第49軍が第70軍に合流した。半壊状態のドイツ第25装甲擲弾兵師団は反撃を試みたが、果たせたのはソ連軍の大群の遅延だけだった。4月26日、ソ連第65軍は対面のドイツ軍を粉砕し、幅20kmの突破を達成した。

これを受けてマントイフェルは麾下部隊に第二防御線への後退を命じた。この線は4月27日まで保持された。

この日、ソ連軍の攻撃が再開され、第3装甲軍はメクレンブルク湖沼地帯方面へと再度後退を余儀なくされた。第25装甲擲弾兵師団は第7装甲師団の残存部隊とともにソ連軍の迎撃を試みた。同時に、第3装甲軍は第27SS軍団司令部と「千一夜」戦闘団の残存部隊によって増強された。その他にも新編されたばかりの、戦闘価値が疑わしいか皆無に等しい部隊が利用可能となっていた。

追撃と救出

マントイフェルの目的はもはや、ソ連軍の迎撃でもベルリンの救援でもなかった。ただ自らの部下たちを救い出し、後退させて西方へ送り届けることだけが残されていたのである。マントイフェルはヒトラーの命令に反して後退したが、それはヴィスワ軍集団司令官ハインリッヒ上級大将の黙認のもとでの行動であった。それでもソ連軍は追撃の手を緩めなかった。5月1日、ソ連軍は小都市デミーンを強襲し、多くの住民、とりわけ女性たちが深刻な被害を被った。

戦闘は5月5日まで続き、第3装甲軍の残存部隊は、他の多くの将兵や民間人とともに英軍占領地域へと越境した。実際、シュヴェリーン市では英ソ両軍の間で小規模な衝突が発生したが、重大な結果には至らなかった。5月7日、モントゴメリー元帥とロコソフスキー元帥はヴィスマールで会談し、占領区域の分割線の詳細について協議した。

マントイフェルの戦いが残したもの

第3装甲軍の戦いは、圧倒的な戦力差を考えれば、勝利の可能性など当初から存在しなかった。マントイフェルが成し遂げたのは、ソ連軍との戦い、そしてヒトラーの無謀な命令との戦いを通じて、数万人もの同胞をソ連の捕虜収容所から救い出したことであった。

マントイフェル自身は1948年まで捕虜として抑留された。釈放後は政治家に転身し、自由党(FDP)から連邦議会議員に選出されている。ドイツ連邦軍の再建にも重要な役割を果たしたが、1959年には、かつて脱走兵の処刑を命じた責任を問われて禁錮刑に処せられた。ほどなく釈放されたものの、その後は公職を離れて過ごし、1978年に生涯を閉じた。

1945年 ベルリン北方の死闘――マントイフェルと第3装甲軍、ソ連軍の猛攻を迎え撃つ

ハッソ・フォン・マントイフェル上級大将