「黒い軍団」――その名で知られるブラウンシュヴァイク公国の部隊は、ナポレオンによる自国併合に抗して結成された義勇軍だった。漆黒の軍服と髑髏(トーテンコップ)の徽章を身につけた彼らは、ナポレオン支配への抵抗の象徴となっていた。1815年6月18日、運命の日、彼らはワーテルローの戦場に立つことになる。
ウェリントンの撤退と「黒い軍団」の配置
リニーの戦いでプロイセン軍が敗北したことを知ったイギリス軍総司令官ウェリントン公は、あらかじめ予備陣地として選定しておいたワーテルロー近郊の防御に有利な地点へ撤退することを決断した。6月17日、多国籍で構成されたウェリントン軍はモン・サン・ジャンの丘に展開し、フランス軍を待ち構えた。
ブラウンシュヴァイクの「黒い軍団」は、公フリードリヒ・ヴィルヘルムの戦死後、オルファーマン大佐が指揮していた。その兵力は5,962名――歩兵4,586名、騎兵866名、砲兵510名と16門の砲である。しかし、この旅団は世界史的なこの会戦で一団として行動するのではなく、三つの部隊に分かれて戦うことになった。
軽騎兵(フザール)と槍騎兵(ウーラン)は旅団から分離され、イギリス第7騎兵旅団に配属された。前衛大隊、猟兵大隊、第1軽歩兵大隊はウグモン農場の北西端に展開してイギリス軍を支援し、第2・第3軽歩兵大隊と3個戦列歩兵大隊は、砲兵とともに第二梯団として予備に置かれた。
開戦――ウグモンをめぐる攻防
ウグモンの守備を担っていたのは、ビング少将率いるイギリス第2近衛旅団だった。ワーテルローの戦いは午前11時30分に始まった。ナポレオンは前夜の豪雨でぬかるんだ地面ができるだけ乾くのを待っていたのである。ウグモンの正面には、レイユ将軍指揮下のフランス第2軍団(第5、第6、第7、第9歩兵師団および第2軽騎兵師団)が展開していた。
フランス軍によるウグモンへの攻撃は激しい砲撃から始まった。それでも3時間にわたり、フランス軍の攻撃はことごとく撃退された。この時点まで、ブラウンシュヴァイク兵たちは本格的な戦闘に巻き込まれていなかった。連合軍の左翼では、有名なイギリス騎兵第2旅団(ユニオン旅団)が大きな犠牲を払いながらも、フランス軍の攻撃を食い止めていた。
フランス軍は連合軍の中央と右翼への新たな攻撃を続け、ラ・エ・サントとウグモンという二つの要衝に狙いを定めた。戦線を突破できなかったネイ元帥は、ミヨー重騎兵師団(24個騎兵中隊)と近衛軽騎兵師団(19個騎兵中隊)を集結させ、連合軍へ解き放った。
騎兵の波と方陣の攻防
イギリスの各歩兵大隊は方陣(スクエア)を組んだ。イギリス軍の指揮官たちはブラウンシュヴァイク兵の練度を懸念していたが、ドイツ兵たちは冷静に方陣を形成し、フランス騎兵を猛烈な射撃で迎え撃った。フランス騎兵は撃退されて退却し、ブラウンシュヴァイクのフザールとウーランを含む連合軍騎兵がこれを追撃した。
最初の失敗にもネイはめげずに攻撃を繰り返した。再びフランス騎兵の波が連合軍の方陣に突っ込んだが、打ち破られた騎兵はまたも追撃された。しかしその一方で、弾薬を使い果たした守備隊により、ラ・エ・サントは陥落した。そこで戦っていた3個のブラウンシュヴァイク大隊は、イギリス騎馬砲兵の支援を受け、彼らは極めて有効な援護射撃を行った。だがフランス軍は新たな大規模攻撃を仕掛け、それは連合軍歩兵の奮戦によって撃退された。
近衛隊の突撃と最後の耐え抜き
同じ頃、プロイセン軍の先頭部隊がフランス軍の右翼に到着し始めていた。しかし、プロイセン軍の到着が勝敗を決する前に、ウェリントンは自らの錬り上げられた部隊でフランス軍最後の総攻撃を迎えねばならないことは明らかだった。予想される攻撃に備え、ウェリントンは兵力を再配置し、予備を戦闘に投入した。予備にあったブラウンシュヴァイク大隊は、イギリス歩兵2個旅団の間、そしてイギリス旅団とナッサウ旅団の間の隙間を埋めた。
もはや他に予備を持たなかったナポレオンは、近衛隊を戦闘に投入することを決意した。フランス軍の圧力により、ナッサウ兵とブラウンシュヴァイク兵は当初約100メートルの後退を余儀なくされた。危機的な瞬間、ウェリントンが姿を現し、ブラウンシュヴァイク兵を励ましながら、何としても持ちこたえるよう命じた。彼らは弾薬不足に直面しながらも、その命令に応えた。ドイツ兵たちは銃剣を構えて踏みとどまったのである。
やがて、短時間のうちに危機は去った。ブリュッヒャー率いるプロイセン軍の主力が戦場に現れ、フランス軍を圧迫し始めたのだ。ウェリントンは反撃の時が来たと判断し、連合軍は全線にわたってフランス軍へ攻勢に出た。
勝利の代償と帰還
ワーテルローの戦いは連合軍の勝利に終わった。しかしその代償は大きかった。ブラウンシュヴァイク兵の損害は約660名に上った。戦いの翌日、彼らは約2,000名のフランス人捕虜をブリュッセルまで護送する栄誉を与えられた。その後パリへ進軍し、1815年12月6日、凱旋のうちに故郷へ帰還したのである。