
七年戦争(1756〜63年)のさなか、ヴュルツブルク司教兼フランケン公アダム・フリードリヒは、フリードリヒ大王率いるプロイセン軍と戦うオーストリア軍への加勢のため、歩兵連隊2個の創設に同意した。このうち2番目にあたるのが、いわゆるヴュルツブルク「青」連隊(ブラウ連隊)である。
創設と編成
連隊の編成は1756年末に始まり、1757年5月までに歩兵大隊2個が成立した。各大隊はフュジリエ中隊6個(各136名)と擲弾兵中隊1個(100名)で構成され、連隊全体の総兵力は1,860名に達した。兵士たちは青い袖口と襟を配した白色の軍服を着用しており、これが「青」連隊という名称の由来となった。
創設直後、連隊は神聖ローマ帝国(ライヒ)軍のコルプ少将の旅団に編入され、フランケン地方での作戦行動を開始した。プロイセン軍との小競り合いで初陣を飾り、5名の損失を出した。その後も同地域で戦い続けたが、補給体制の崩壊が主因となって消耗が深刻化し、兵力は1,168名まで減少していった。
ロスバッハの戦いでの勇戦
1757年11月5日、連隊はロスバッハの戦いに参加した。この戦いでは、フリードリヒ大王の小規模なプロイセン軍が、約2倍の規模を誇るスービーズ元帥指揮下の仏独連合軍を完膚なきまでに打ち破っている。友軍が次々と敗走する中、連隊は持ち場を最後まで守り抜き、際立った戦いぶりを示した。ただし約300名の損失を被り、間もなく補充を受けてようやく1,323名まで回復した。
翌1758年、連隊はボヘミアとザクセンで作戦行動を行い、再びその武勇を発揮した。
苦難の1759年
1759年、連隊はオーストリアのハディク将軍の部隊に属して作戦に参加した。ところが3月31日、第1大隊はプロイセン騎兵の奇襲を受けて全滅する。味方騎兵が先に逃走したため、打ちのめされたヴュルツブルク兵たちは完全に無防備な状態にさらされたのである。第2大隊も同年8月2日、同様の運命をたどった。
奇跡的に生き残ったのは、各大隊から分離運用されていた擲弾兵中隊2個のみだった。彼らは戦い続け、1759年9月21日のコルビッツの戦いで見事な活躍を見せる。さらに、プロイセン軍が完敗したマクセンの戦い(プロイセン側の死傷者2,000名、捕虜11,700名超)でも善戦した。その後まもなく、擲弾兵中隊は両大隊の残余と合流し、825名からなる新大隊が編成された。
再編成と最後の戦い
1760年初頭、この大隊は解隊され、連隊は縮小された2個大隊と擲弾兵部隊によって再編成され、総兵力は956名となった。同年8月20日のシュトレーラの戦いでは、プロイセン軍を正面から迎え撃ち、彼らが占拠するデュレンベルク高地へ白兵突撃を敢行して武名を馳せた。しかし損害は甚大で、擲弾兵中隊2個は解隊され、生存者によって1個中隊が新たに編成された。
1760年11月3日、特に激しい流血となったトルガウの戦いで反プロイセン軍が敗北すると、連隊はドレスデンへ撤退した。累積した損耗のため、連隊の兵士たちは、同じく帝国軍有数の精鋭として名高いヴュルツブルク「赤」連隊に編入されることとなり、「青」連隊の歴史はここに幕を閉じた。