古代の歴史

なぜA・O・ネヴィルは「ハーフカースト」の子どもたちを排除したのか――西オーストラリア先住民主任保護官の同化政策と批判

西オーストラリア州のアボリジニ主任保護官(Chief Protector of Aborigines)を長年務めたA・O・ネヴィル(Auber Octavius Neville)は、オーストラリア史上最も物議を醸した官僚の一人です。彼が主導した、当時「ハーフカースト(混血)」と呼ばれた子どもたちの強制移除政策は、後に「盗まれた世代(Stolen Generations)」として知られる悲劇の中核をなし、現代に至るまで激しい批判を受け続けています。

ネヴィルとはどんな人物だったのか

ネヴィルは20世紀前半の約25年間にわたり、西オーストラリア州の主任保護官を務めました。1905年のアボリジニ法(Aborigines Act 1905)およびその改正により、主任保護官はアボリジニの子どもたちの法定後見人となり、特別な許可を得ることなく子どもを親元から引き離す強大な権限を持っていました。ネヴィルは、この権限を最も積極的に行使した人物の一人です。

排除の背景にあった「生物学的吸収」という思想

ネヴィルが混血児の移除を推進した最大の理由は、「生物学的吸収(biological absorption)」と呼ばれる思想でした。彼は、ヨーロッパ系との混血の子どもたちを施設などで教育し、数世代にわたって白人との結婚を重ねさせることで、最終的にアボリジニとしての身体的・文化的特徴を消し去り、白人社会へ「吸収」できると考えていたのです。

1937年には、連邦政府と各州の関係者が集う会議の場で、「純血のアボリジニはいずれ消滅するが、混血は問題として残る」と述べ、混血人口を段階的に白人化する方針を主張しました。この考え方は、当時広く受け入れられていた優生学的・人種差別的な観念に基づくものであり、今日では完全に否定されています。

実際に行われたこと

ネヴィルの方針のもと、多くの混血の子どもたちが母親や共同体から引き離され、ムーアリバー原住民定住地(Moore River Native Settlement)などの施設に送られたり、白人の家庭に里子に出されたり、家庭使用人として働かされたりしました。言語や文化、家族とのつながりを断たれたこれらの子どもたちとその家族は、計り知れない心の傷を負うことになりました。

批判と歴史的評価

ネヴィルの政策への批判は在任中から存在しましたが、本格的な再検証が始まったのは1997年の報告書「彼らを家に連れ帰って(Bringing Them Home)」以降です。この報告書は強制移除がもたらした深刻な被害を明らかにし、2008年にはオーストラリア連邦議会による正式な国家謝罪へとつながりました。

なお、一部には「ネヴィルが子どもを排除した証拠はない」とする主張も見られます。しかしこれは、当時の法令、彼自身の著作『Australia's Coloured Minority』(1947年)、そして膨大な政府記録によって裏付けられた歴史的事実と矛盾します。むしろ確かなのは、彼の政策が現在に至るまで強く非難され続けているという点です。

まとめ

A・O・ネヴィルが混血の子どもたちを家族から引き離したのは、単なる個人の悪意ではなく、当時の優生学的思想と「白豪主義」に根ざした同化政策の産物でした。しかし、その結果としてもたらされたのは、家族と文化を奪われた世代の深い苦痛です。この歴史の責任と向き合うことは、今なおオーストラリア社会全体に課せられた課題であり続けています。