第二次エル・アラメイン会戦(1942年10月23日〜11月11日)において、枢軸国軍(ドイツ軍・イタリア軍)の犠牲者は55,000人を超えました。この数値には、戦死者だけでなく捕虜となった兵士も含まれています。
枢軸国軍の損害の内訳
約55,000人という損害の中で最も多かったのは捕虜です。包囲網を突破できず取り残された将兵の多くが英連邦軍に降伏し、その数は30,000人以上に達したとされています。これに加えて、激しい砲撃と空爆による戦死者・負傷者、そして装備不足の中で戦病となった兵士が含まれます。
特にイタリア軍の損害は甚大でした。補給が途絶えた枢軸国軍では、燃料や弾薬の枯渇により撤退すらままならず、多くの部隊が後退路を断たれたまま降伏を余儀なくされました。
エル・アラメイン会戦とはどのような戦いだったのか
第二次エル・アラメイン会戦は、北アフリカ戦線における決定的な転換点となった戦いです。ベルナルド・モントゴメリー将軍率いるイギリス第8軍が、エルヴィン・ロンメル元帥率いるドイツ・イタリア装甲軍団に対して攻勢を仕掛けました。
両軍の戦力比較
開戦時点で、英連邦軍は枢軸国軍を兵力でも物資量でも大きく上回っていました。圧倒的な物量差は戦局を左右する重要な要因となり、長期にわたる消耗戦の中で補給力の劣る枢軸国軍は徐々に追い詰められていきました。
この戦いの歴史的意義
第二次エル・アラメイン会戦の敗北により、枢軸国軍はエジプトへの進出を断念し、西へ向けて大規模な撤退を余儀なくされました。イギリス首相ウィンストン・チャーチルはこの勝利について「終わりの始まりではない。しかし、始まりの終わりだ」と述べたことで有名です。
55,000人を超える人的損失は、単なる数字以上の意味を持っています。この壊滅的な打撃によって枢軸国は北アフリカにおける主導権を完全に失い、やがてチュニジアでの包囲、そして1943年5月の北アフリカ全域からの撤退へとつながっていったのです。