古代インド最古の聖典であるヴェーダには、特定の人間の作者の名前は記されていません。これは偶然ではありません。ヒンドゥー教の伝統において、ヴェーダは「シュルティ(śruti)」、すなわち「聞こえてきたもの=天啓」として位置づけられているからです。ヴェーダは誰かが創作したものではなく、宇宙に本来備わっている永遠不滅の真理であると考えられてきました。
リシ(聖者)――ヴェーダを「見た」人々
では、ヴェーダはどのようにして人類にもたらされたのでしょうか。鍵となるのが「リシ(rishi)」と呼ばれる聖者たちの存在です。サンスクリット語でリシは「見る者」「観想者」を意味し、深い瞑想の境地において、神聖な音と讃歌を「受け取った」存在とされています。
ここで重要なのは、リシがヴェーダの「作者」ではなく「観者(seer)」であるという点です。彼らは自ら詩を創作したのではなく、瞑想によってすでにそこにある永遠の音を感知し、それをそのまま後世へ伝えたとされるのです。
有名なリシたち
『リグ・ヴェーダ』の各讃歌には、伝統的に対応するリシの名が結びつけられています。代表的な人物には次のような面々がいます。
- ヴィシュヴァーミトラ――有名なガーヤトリー・マントラを「見出した」とされる聖者
- ヴァシシュタ――第7巻を中心とする多数の讃歌に関わる宮廷司祭
- アトリ――第5巻の主要なリシ
- バーラドヴァージャ――第6巻の中心的な存在
- アギャスティヤ――インド南方への伝道でも知られる伝説的聖者
編纂者としてのヴィヤーサ
一方、散在していた賛歌を四つのヴェーダ(リグ・ヴェーダ、サーマ・ヴェーダ、ヤジュル・ヴェーダ、アタルヴァ・ヴェーダ)として体系的に整理した人物としては、伝説上の聖者ヴィヤーサ(Vyāsa)の名が挙げられます。「ヴィヤーサ」はサンスクリット語で「編集者・分割した者」を意味し、「ヴェーダ・ヴィヤーサ」とも呼ばれます。ただしこれもあくまで伝承であり、実際には長い歳月の中で多くの誦経者たちの手によって編纂が進められたと考えるのが一般的です。
口承によって守られてきた言葉
興味深いことに、ヴェーダは文字に記されるよりも先に、極めて厳密な暗唱法によって何世代にもわたり口頭で伝えられました。発音やアクセントの一つひとつを正確に再現するための訓練体系が発達しており、この伝統のおかげで数千年の時を経てもテキストがほぼ原形のまま保たれているといわれています。
まとめ: ヴェーダに人間の作者は存在しません。それらはリシと呼ばれる聖者たちが瞑想を通じて「観じ取った」永遠の啓示であり、後世、ヴィヤーサと呼ばれる聖者がこれを整理編纂したと伝えられています。