古代の歴史

ロベスピエールはなぜルイ16世の処刑を支持したのか?フランス革命における彼の実像

前提の整理:ロベスピエールは革命初期の指導者ではなかった

マクシミリアン・ロベスピエール(1758年~1794年)について、「国王に対する革命を最初から指導した人物」というイメージを持たれがちですが、これは正確ではありません。1789年7月14日のバスティーユ牢獄襲撃をはじめとする革命初期の劇的な出来事に、彼が直接関わった記録はありません。当時の彼は、アルトワ地方アラス出身の無名に近い弁護士にすぎず、三部会の第三身分代表として選出されたばかりでした。

とはいえ、彼がフランス革命全体を通じて中心的な指導者の一人になったことは事実です。ロベスピエールの真の影響力は、革命が進行し共和政が樹立された後、1793年頃から本格的に発揮されることになります。

「不可侵の人」――原則に生きた弁護士

ロベスピエールは国民議会やジャコバン・クラブでの演説を通じて次第に名を上げていきました。その徹底した誠実さと、汚職に一切染まらない姿勢から、彼は「不可侵の人(アンコラプティブル)」というあだ名で呼ばれるようになります。

興味深いことに、若き日のロベスピエールは死刑制度そのものに反対を唱えていたことで知られています。人権を重んじる啓蒙思想の影響を受けた彼にとって、死刑は不必要な残虐行為だったのです。この背景を知れば、後の彼の選択がいかに重大な転換であったかが分かります。

王政の崩壊と立場の変化

1791年6月のヴァレンヌ逃亡事件――国王一家が国外への脱出を図り、国境付近で捕らえられた事件――は、フランス人の王に対する信頼を決定的に損ないました。さらに1792年8月10日にはパリ民衆がテュイルリー宮殿を襲撃し、国王の権威は事実上失われます。

こうした混乱の中で選挙された国民公会に、ロベスピエールはパリ代表として選出され、ついに革命政治の中心へと躍り出ます。それまで彼は対外戦争に慎重な立場を示すなど比較的穏健な意見も持っていましたが、共和国を内側から脅かす存在に対しては、断固たる態度で臨むようになっていきました。

なぜルイ16世の処刑に賛成したのか

1793年1月、国民公会は「裏切り者」となった元国王ルイ16世(市民ルイ・カペー)の裁判を行いました。ここでロベスピエールは、後世に名を残す有名な演説を行っています。

「ルイは死なねばならぬ。祖国が生きねばならぬゆえに」

彼の論理はこうでした。国王はすでに人民との契約を破棄し、自ら王位の正当性を失っている。したがってこれは通常の刑事裁判ではなく、革命の存続に関わる政治的判断である。捕虜とした元国王を生かしておけば、国内外の敵が復位を画策する火種となり、共和国は常に危険にさらされ続ける――というものです。

個人的な憎悪からではなく、革命防衛という冷徹な政治的必然性に基づいて処刑を支持した点こそ、ロベスピエールらしい判断でした。結果としてルイ16世は1793年1月21日、ギロチン刑に処されています。

まとめ

ロベスピエールはバスティーユ襲撃のような革命初期の英雄ではなく、議会での演説と揺るぎない信念によって台頭したタイプの革命家でした。死刑廃止論者だった彼が「祖国のため」という大義のもとに国王処刑へ賛成票を投じたことは、理想と現実政治の狭間で揺れる革命期の悲劇性を象徴する場面といえるでしょう。皮肉にも、その後彼自身も1794年7月のテルミドールのクーデターによってギロチンに送られ、革命はその担い手をも飲み込んでいくことになります。